2017年05月20日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(59)-越中前哨戦-

西暦1183年(寿永二年)4月27日、平家の北陸征討軍総大将の平維盛は、反平家勢力が立て篭もる越前火打城を攻め落とし、反平家勢力を加賀に引きのかせました。その上で加賀に立て篭った林、冨樫の両氏の城を焼き討ちにしました。

維盛にとって、これは手痛い敗戦だった「富士川の戦い」の汚名を返上した「禊」の戦いでした。

越前、加賀を制した維盛は、源義仲(木曽義仲)の拠点である越後国府の奪還を目指して、その途上にある越中(現在の富山県)に兵を進めました。この時、維盛はかつて越中守だった平盛俊に5,000兵を与えて、先発隊として先行させています。

すでに越前、加賀の状況は源義仲(木曽義仲)の耳に入っていました。越後にとって、越中は大事な防波堤の役割を果たしていました。越前、加賀を取られたとはいえ、黙って越中も奪われる義仲ではありませんでした。

義仲は四天王の一人である今井兼平に6,000兵を与えて越後国府を出発させ、御服山(呉羽丘陵)に布陣させました。

5月8日、平盛俊は越中に入りますが、御服山に義仲軍が入っていることを知ると、御服山の西方約16kmの般若野(富山県高岡市北般若地区、般若野地区、砺波市南般若地区、東般若地区、般若地区一帯)に陣を張り、敵の動きを見張ることにしました。
しかし、この時、すでに兼平は盛俊の陣形、兵力などを把握していたのです。

その上で、兼平も盛俊の動きを見張っていました。ところが、同日夕刻になって盛俊軍に動きが全く動きがありません。いや、その気配すらも感じられませんでした。

兼平は盛俊が先発隊であり、本体との合流を待っている可能性も否定できないことから、

「今宵、動くぞ」

と全軍に下知しました。
本体との合流の時間を稼がれては兼平がここにいる意味がありません。敵が動く気配ないなら、こちらから攻めに転ずる。ただし普通に攻めると被害が大きいので、兼平は夜襲を計画したのです。

兼平は兵を細かく小隊に分け、同日深夜に闇に紛れて行軍を開始。
すでに密偵を放っていたので、敵の居場所の把握は容易でした。
兼平軍は夜明け前に般若野に集結。ちょうど空が白くなりつつある時、

「かかれーーー!」

という兼平の下知で、完全に休息を取っていた盛俊軍に攻めかかりました。
盛俊軍も思わぬ奇襲にうろたえましたが、さすがは平家の歴戦の侍大将、程なく戦闘態勢を取って応戦。

しかし、序盤の劣勢も覆すことはできず、5月9日、昼過ぎ、とうとう退却の命令を出さざる得ませんでした。
この時、盛俊軍の損害は2,000兵近かったと言われています。

一方、義仲の本体は50,000騎を率いて越後国府を出発。日本海の海岸沿いを加賀に向けて進軍しておりました。

9日は六渡寺(富山県射水市庄西町)に到達し、翌日10日には、般若野の戦いで平盛俊を敗った跡の今井兼平と合流しています。

兼平より平家の先発隊を撃退したことを聞いた義仲は、平家の征討軍がすでに越中に入っていること、またその軍勢が越前・加賀の残存兵から聞いた100,000騎であるならば、2倍の兵力差は如何ともしがたいと考えていました。

「平地で戦えば、負ける」

義仲の戦いの直感がそう伝えていました。
この判断が、のちに源氏と平氏の運命を分かつものになろうとは、この時は誰もわからなかったに違いありません。

(つづく)
posted by さんたま at 00:19| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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