2017年05月08日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(58)-維盛、汚名返上-

西暦1183年(寿永二年)4月6日、平家一門棟梁・平宗盛は、北陸征討を決意し、伊勢神宮他、主だった神社十六社に征討の成功を祈願しました。

この祈願は5日間に渡って行われた後、宗盛は征討軍の大将に平維盛(宗盛の兄・重盛の嫡男/小松家当主・右近衛中将)を起用しました。

亡き兄・重盛の極位極官を超え、亡き父・清盛の極位に並んだ宗盛にとって、北陸征討の成功は平家の勢力が未だ衰えを知らず、盤石であることを世間に見せしめる大事な戦いであり、その総大将に平家嫡流である小松家当主であり、清盛の嫡孫である維盛を当てたのは、宗盛の計らいであったのかもしれません。

また、この頃、征討軍の兵糧挑発のため、平家の武士たちが近隣の田畑から略奪を行っております。

公家たちはこれを宗盛に直訴しますが、宗盛はこの申し出を無視し続けました。それだけ、宗盛の中にも、引くに引けない切羽詰まってるものがあったのだと思います。

同年4月17日、平維盛を総大将とした北陸征討軍は、総勢十万騎となって京を出発しました。

「玉葉」(九条兼実日記)によると「目的は木曽義仲の追討。そしてそのまま東国の源頼朝への追討らしい」とありますが、同月25日の日記には、左中弁藤原兼光より「追討宣旨は前内大臣(宗盛)の求めに応じて東国、北陸を実効支配している源頼朝、武田信義への追討」という内容で出されたと記録されています。

宗盛の中では、木曽義仲の勢力も頼朝の一勢力に過ぎないという認識だったのでしょうか。

一方、維盛率いる征討軍は同月26日、越前国に入り、翌27日、越前・加賀の反平家勢力が立てこもる火打城(福井県南条郡南越前町今庄)を包囲しました。

火打城は、城の東側を流れる能美川(日野川)と南側を流れる新道川(鹿蒜川)が外堀の役割を果たし、西側は高山が連々と続く難攻不落の要塞でした。この時、反平家勢力は能美川と新道川の合流地点をせき止め、城の周りを巨大な湖に仕立てて追討軍に対抗しました。

「平家物語」に記載がある通りであるなら、この城に立てこもる反平家勢力は、平泉寺長吏斎明、稲津新介、斎藤太、林六郎光明、富樫入道ら6000騎あまり。

城を攻めるには船が必要で、維盛ら征討軍に船の用意があるはずもありません。征討軍はそのまま何もできない日が何日も続きました。

ところが、ある日のこと、維盛の陣屋に一本の蟇目矢(鏑矢の一種)が打ち込まれました。
蟇目矢には書状が仕込まれており、そこには

「あの湖は昔からのものではない。一時的に山川をせき止めて作った人工の湖。夜陰に紛れて足軽を使って柵を切り落とせば、水は引く。引いた後は馬の足で急ぎ渡って攻撃を。背後からは私が援護します。これは平泉寺の長吏斎明が申し上げるものなり」

と書かれてありました。
つまり平泉寺長吏斎明が源氏を裏切って、征討軍に湖のカラクリを明かしてしまったのです。

維盛はこれに大いに喜びましたが、他の諸将は「罠ではあるまいか」と訝しがっていました。

維盛は他に有効な策がない以上、これを試さない理由はないとし、書状に書かれてある場所に足軽を派遣すると、確かに「堰」がありました。すぐさま足軽がそれを破壊すると、水はみるみる引いていきます。

馬の足で渡れる水位まで下がるやいなや、維盛は城に向けて全軍総攻撃を命令しました。
火打城内の稲津、斎藤、林、富樫入道は、水が見る見る引いていくのを見ながら、

「水のカラクリは破られた。敵は大軍。この城はもう持ちこたえられん。城を捨てて逃げるしかない」

と方針を決定し、加賀国に退却して白山河内(石川県白山市)に立て篭り、さらに平氏に対抗する姿勢を崩しませんでした。

維盛は火打城を落城せしめると、勢いに乗じて加賀国に攻め入り、林、富樫の両氏がそれぞれ立て篭った城を焼き払ってこれを撃滅しました。

維盛からすれば、この火打城攻めは手痛い敗戦だった「富士川の合戦」の汚名を注いだことになります。
そして、この知らせを聞いた京の平家一門の者たちは「さすがは小松殿よ。平家の嫡流よ」と褒め称えたそうです。

しかし、ここで負けておとなしくしている反平家勢力ではなく、とりわけ義仲は黙ってはいませんでした。
頼朝との和議を整え、後顧の憂いがなくなった今、彼にはもう「前進」しかなかったのです。

(つづく)
posted by さんたま at 13:25| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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