2017年05月06日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(57)-嫡流と庶流-

西暦1181年(養和元年)から始まった「養和の大飢饉」は、翌年1182年には収束しはじめ、同年6月、年号が養和から寿永に改元されました。

この年、すなわち西暦1182年(寿永元年)に起きた大きなこととしては、8月12日、鎌倉では源頼朝北条政子の間に、嫡男・万寿が誕生しています。これが後の鎌倉幕府二代将軍・源頼家になります。

また同年9月4日、平家一門棟梁・平宗盛は朝廷より権大納言に還任され、翌月10月13日に内大臣に任じられています。

宗盛は西暦1179年(治承三年)に権大納言・右近衛大将を辞任して以来、畿内惣官の職責として軍事は司っていましたが、政務の表舞台には出てきていませんでした。ここで内大臣に任じられたことで、平家一門の棟梁が再び政務の表舞台に戻ってきたことになります。また、内大臣は亡き兄・重盛の極官であり、名実ともに一門の棟梁の地位に昇ったことになりました。

さらに明けて西暦1183年(寿永二年)正月21日、宗盛は朝廷より従一位に叙せられました。これは非常に重い意味を持っていました。1つは亡き兄・重盛の極位(正二位)を超えたこと。もう1つは清盛の極位に並んだことになります。宗盛は同年2月27日に、内大臣を辞任していますが、これは亡き清盛の極官である太政大臣への布石だったのかもしれません。

そして、ちょうどその頃、比較的落ち着いていた甲信越地方がにわかに騒がしくなりました。東国を実効支配していた源頼朝と、信濃、越後、北陸地方を実効支配していた源義仲の間に緊張が走ったのです。

「玉葉」(九条兼実日記)によれば、西暦1183年(寿永二年)3月頃、源頼朝は源義仲を討伐しようとしていたとあります。理由は、頼朝が関八州から追放した常陸の源義広(志田義広)が、その兄弟である新宮十郎行家(源行家)の手引きで、義仲を頼り、義仲がそれを保護したためとあります。

これまで、頼朝、義仲はそれぞれ支配地域は違えど、同じ源氏の勢力拡大に勤め、平氏政権への反逆という共通の目的を持っていました。しかし、頼朝と袂を分かった行家と、頼朝に敵対していた義広を義仲が保護するということは、義仲が頼朝を攻める大義名分を得たことにもなります。

頼朝は、義仲が攻めてくる前に、こちらから東国の兵を押し出して義仲を討とうと考えたのでした。
義仲も「振り払う火の粉は払わねばならん」として、越後と信濃の境界である関山(新潟県妙高市大字関山?)あたりに陣を張り、頼朝を待ち構えます。

頼朝は武田信光(武田信義五男/通称:石和五郎)を先鋒に命じ、総勢十万騎で信濃に押し寄せ、信濃国佐樟川(現在地不明、妙高の関川付近か?)岸に陣を張りました。

ともに大軍ということもあり、睨み合ったまま、一触触発状態が続きました。

頼朝はともかく、義仲はこの膠着状態を良しとしていませんでした。
義仲は北陸をほぼ平定した今、源氏勢力の中で唯一、京に近い位置にある男でした。同じ源氏の一族である行家と義広を保護したために頼朝に余計なイチャモンをつけられ、こんなところで悪戯に時間を費やすことは、彼にとってはメリットは一切なく、デメリットしかありませんでした。

かといって、このまま兵を引いて方向転換して京へ攻め入れば、背後から頼朝の攻撃を受けるのは必定でした。

「なんとかしてこの場を収める方法はないものか」

義仲の問いに樋口兼光、今井兼平、落合兼行らは頭を抱えましたが、

「落としどころとしては鎌倉殿(頼朝)に敵意のないことを示せばいいのではなかろうか」

「となると領土を割譲か?こっちは何も鎌倉殿に敵視される覚えはないのだぞ」

「いやいや、この戦いはもともと十郎殿と志田殿を匿ったことに始まってるのだ、あの二人を差し出したらどうだ」

三人はいろいろとアイデアを出し合い、「行家と義広を頼朝に差し出しては」という意見にまとまったところ

「それはできん!」

と義仲は一蹴しました。

「鎌倉殿は従兄弟じゃが、十郎殿、志田殿は我が叔父じゃ。血縁でいうならば、鎌倉殿よりもご両者の方がはるかに深い。そのご両者を売り飛ばし、身の保身を図るようなこの義仲と思うてか!」

義仲の激昂に兼光、兼平、広行の三人は平伏しました。しかし

「しからば....清水冠者(義高)殿を鎌倉にお遣わしなされ」

と兼光が言いました。

「なんだと」

義仲にさらなる怒りがこみ上げてきました。
清水冠者とは義仲の嫡男である源義高のことだったからです。

「木曾殿は志田殿、十郎殿を差し出すのは嫌と仰せになられました。それは我らも道理として承ります。しかし、この戦の原因となる人を出せないとなると、木曾殿の敵意なきことを示すには、それに代わる重みのある人物を鎌倉に送るしかございませぬ。」

「それが義高だというのか」

「御意。清水殿は木曾殿の嫡男。鎌倉殿も無下にはできますまい。また清水殿にとっても、鎌倉は良き学びの場になろうと存じます」

「しかし......」

「木曾殿は一刻も早く京に上らねばならない御方。京に上って平家を追放し、御上(法皇)を奉れば、鎌倉殿などどうにでもなります。ここは踏ん張りどころ、一時の辛抱でござる」

兼平も兼光の意見に同調しました。
義仲にとって今一番惜しいのは「時間」でした。その時間を確保するために自分の息子を敵方に差し出さねばならない義仲の苦衷は想像にあまりあるものでした。

「......あいわかった。鎌倉殿にその旨、申し伝えよ」

義仲はついに折れました。

「ご心中お察し申し上げます」

兼光、兼平、広行は平伏しました。

「ただし、鎌倉殿にはこう申せ。清水冠者を鎌倉殿に差し出すは人質にあらず。我ら源氏の縁固めの証にて、ゆくゆく成人の折は、鎌倉殿の一の姫(大姫)の婿として迎えるようにと。」

これは河内源氏庶流である義仲から、河内源氏棟梁である頼朝への最大限の意趣返しでした。

頼朝は義仲からのこの申し出を聞き

「私には見事なご決断としか言えぬ。清水冠者殿は確かに我が一の姫の婿として丁重にお預かりいたす。」

と答えました。

頼朝としても最初から義仲を滅ぼすつもりはなかったため、「義仲に敵意がない」とわかれば、戦う理由はありませんでした。この時期、東海道に平氏の軍勢の影がちらついているのを、武田信義から報告を受けており、頼朝も長滞陣は意味のないものになりつつあったのです。

また、頼朝としても義仲の嫡男が手中にあることは、義仲が敵に回らないという保険に他なりませんでした。

義高引き渡しの際、義仲は義高を呼び出し

「この度、和睦の証としてそなたを鎌倉殿に預けることとなった。これも一人前の大人になるための務めと思え。良いか、何があっても鎌倉殿に背いてはならぬ。もしそなたが鎌倉殿の命に背けば、即座に殺されるであろう。それを頭に入れて、日頃の振る舞いを慎め」

と訓示を示しています。
また、義仲の家臣の中から、海野幸氏望月重隆という弓の名手を二人守役としてつけました。
こうして、河内源氏の嫡流と庶流である頼朝と義仲の一触触発の危機は回避され、無事、和睦成立となりました。

また、この頼朝と義仲の対立は、京の平宗盛に逐一報告されてました。
この頃の宗盛は後白河法皇の朝廷工作もひと段落しており、平家の勢力回復の絶好のチャンスであり、再び源氏への追討活動を活発化させます。まずは、その目的地はもっとも京に近い北陸でした。

(つづく)
posted by さんたま at 15:43| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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