2017年05月03日

「博多どんたく」の中核・「博多松囃子」とは?

今日、5月3日と明日5月4日の両日に渡って、福岡市では「博多どんたく」というお祭りが行われています。
国内最大級の約200万人の人出が出るお祭りですが、この「博多どんたく」という祭りは、「博多松囃子(はかたまつばやし)」をルーツとなっています。

そして、そこには、もちろん、歴史的背景が存在してます。今日はそれを綴っていきたいと思います。
話は平安時代にまで遡ります。


1、博多松囃子の起源
平安時代後期、朝廷政治の実権を握っていたのは平家(平氏)でした。

その平家一門の棟梁・平清盛は、西暦1158年(保元三年)に太宰大弐(太宰府の次官)に就任し、博多に日本で初めて人工の港を作り、それまで平家が主として行っていた宋との貿易(日宋貿易)を「国事」として発展させました。

この時作られた港が「袖の湊」と言われていますが、12世紀には埋め立てられていて、その規模は現在でも正確なところはわかっていません。ただ、この「袖の湊」の土木工事を実質的に行ったのは、清盛の嫡男・平重盛でした。

袖の湊、及びそれに伴う日宋貿易は博多の町に大きな発展を呼び起こしました。
重盛は西暦1179年(治承三年)閏7月29日、42歳の若さで父・清盛に先立って亡くなりますが、その重盛に対し博多の人々が感謝の気持ちを表したのが、「博多松囃子」の始まりとされています。


2、博多松囃子の最初の記録
それから400年以上が経過した、西暦1587年(天正15年)6月、時の関白・豊臣秀吉は九州征伐を行い、その帰り道の途中、荒廃した博多に立ち寄って、博多復興計画を黒田孝高(官兵衛)に立案させ、石田三成、滝川雄利、長束正家、小西行長、山崎片家の五人に奉行を命じています。

秀吉は、博多商人としてその名が知れ渡っている神屋宗湛嶋井宗室らにも協力を求め、戦火を避けて博多を離れた人を呼び戻すとともに、当時は入り組んでいた入り江や湿地を埋め立て町屋を作って、息浜(現在の冷泉町や呉服町近辺)博多浜(現在の御供所町や博多駅前一丁目付近)を一つの町としました。

造成した町の真ん中に大路を作ってこれを「一小路」(現在の大博通りあたり)とし、平安京のような碁盤目の形の七小路に編成し、「流」(ながれ)という自治単位に集合させました。

この時形成された「流」が、

東町流(現:稚児東流)
市小路流(呉服町流)
西町流(現:稚児西流)
土居町流(現:土居流)
石堂流(現:恵比須流)
魚町流(現:福神流)
洲崎町流(現:大黒流)

と呼ばれており、現在につながる「流」の元となっています。

つまり、博多松囃子の起源は平安後期ですが、現在の形に元になったのは豊臣秀吉の博多復興計画によるところが非常に大きかったわけです。

この「流」が形成された後の西暦1594年(文禄四年)10月29日、博多の衆が松囃子をしたてて、年賀の祝いに当時の筑前国主・小早川秀秋名島城(福岡県福岡市東区名島)を訪れていることが、当時の豪商・神屋宗湛「宗湛日記」に記録されています。

時期的に見て、小早川隆景が養子・秀秋に家督を譲った時期とも符合するので、その祝いもかねて行われたのではないでしょうか。

何れにしてもこれが「博多松囃子」としての記録の初見です。


3、博多松囃子の中止と再開
西暦1599年(慶長四年)に、小早川秀秋が肥後国主・加藤清正に年賀の使者を送った際に、松囃子の一行と鉢合わせになって口論となり、松囃子一行の者が使者の侍を殺害する事件が起きています。

おそらく西暦1594年から同1599年までは博多松囃子は「毎年の恒例行事」として行われていたのではないかと思いますが、この事件がきっかけで中止になってしまいます。

時は流れ、徳川幕府の時代、西暦1642年(寛永十九年)、42年間中止されていた「博多松囃子」は、福岡藩主・黒田忠之によって、博多の流が藩主へ表敬訪問する年賀の挨拶(皇居の一般参賀のようなもの)という形で、正月十五日に行われる藩の公式行事となって復活します。

この時、松囃子一行が通ったルートは、福岡城へ年賀の挨拶をしたあと、博多に戻り、神社仏閣や町の有力者をお祝いする形になりました。この松囃子一行の後にそれぞれ奇妙奇天烈、破天荒な趣向を凝らした人や出し物が続くようになり、現在の「博多どんたく」の元になっています。


4、明治期から現在までの博多松囃子
「博多松囃子」は、その後、明治時代には天長節を祝う行事に変わり、西暦1938年(昭和十三年)についに廃止に追い込まれました。しかし、戦後の西暦1946年(昭和21年)5月に戦災の瓦礫の中、子供山笠とともに松囃子が行われて3度目の復活となります。

西暦1949年(昭和二十四年)に現在の開催日が固定され、やがて松囃子よりも「博多どんたく」としてのパレード主体となっていく中、西暦1953年(昭和二十八年)に松囃子の伝統保存を目的とした「博多松ばやし会」が結成されました。

その後の「博多松囃子」は、西暦1954年(昭和二十九年)福岡県無形文化財指定。西暦1969年(昭和四十四年)には福岡県民俗資料指定。西暦1976年(昭和五十一年)には「博多松ばやし」の名称で国の選択無形民俗文化財に選ばれて現在に至っています。

平安時代に端を発し、豊臣秀吉によって復興計画によって作られた「流」が、国主への年賀の挨拶として始まった「松囃子」は二度の廃絶を乗り越え、戦後期にGWの祭りとして確たるものになりました。

また秀吉が復興計画で作った七つの「流」は、「博多どんたく」「博多松囃子」のみならず、「博多祇園山笠」の発展にも大きく寄与しているのは、もうお判りかと思います。

私たちの生活には必ず歴史というものが存在し、それこそが1つのドラマであります。
だからこそ、こういうこと後世に後世につないでいくことが、大事なことだと私は思っています。
posted by さんたま at 23:10| Comment(0) | コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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