2017年05月01日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(56)-幻の和睦-

平家一門が大規模な遠征計画を立てている隙に後白河法皇が朝廷内で暗躍し、平家一門棟梁・平宗盛の胃袋をキリキリさせている頃、関東では源頼朝が後白河法皇に密かに書状を送っているのが確認できます。

この時の頼朝の文面は

「私は朝廷に対し、逆らう考えはありません。ただ、朝廷を蔑ろにしている敵を打ち滅ぼしているだけでございまます。仮に平家を滅亡できなかった場合には、以前のように朝廷が源氏、平氏の両氏を召使っていただければこれに勝る喜びはありません。

東国を源氏に、西国を平氏にお任せになられませ。もし内乱などが起きれば、源平両氏に命じられ、その働きをお試しになられれば良いのです。源平両氏がともに朝廷をお守りすれば、何人も法皇様のご命令に背くものはありますまい。我ら両氏の活躍をともにご覧なされませ。」


というものでした。
この時期は養和の大飢饉が発生しており、兵糧不足に陥っていた平氏はもちろん、源氏も軍事活動を止めていました。それどころではなかったというのが実情です。

頼朝はこれを平氏との和睦のチャンスと見て取ったのだと思います。

この頃、関東は源頼朝。東海は武田信義。信越・北陸は源義仲(木曽義仲)という具合で、反平家勢力である源氏が奥州を除く東日本を実効支配しており、西日本を基盤とする平氏と拮抗する勢力になっていました。

以仁王の令旨と、源頼政(源三位頼政)が挙げた小さな抵抗の火が、東日本全土を巻き込んだ大きな火柱に成長していました。

当初、頼朝の願いは平氏の滅亡でしたが、富士川の戦いの後、上総・下総らの東国武士の推戴を受け、東日本に武士のための政権を作ることを決意し、鎌倉に政庁を作りました。これは奥州を実効支配している奥州藤原氏と同じように朝廷とよしみを通じながら、独自政権を認可させるという手法に近いと思います。

しかし、頼朝は未だ罪人であり流人であります。中央政府である朝廷と誼みを通じるには、自分の軍事活動が「謀反」と思われることだけは防がねばなりません。

また、源氏が平氏と和睦したとしても、中央政界にポジションがなければ平氏と拮抗する勢力にはなりえません。

頼朝にとってはこれが官職への復帰の布石でもあったのです。
大飢饉で戦争など起こせる状態ではないこの時期をおいて、朝廷に自分の意思を通じるタイミングはなかったでしょう。また、これには三善康信、中原親能、大江広元らの頼朝派の官人の動きがあったものと思われます。

後白河法皇にとっても頼朝からのこの密奏はメリットがありました。
現実として大飢饉で朝廷の年貢収入が落ち込んでおり、戦争の長期化はこの飢饉をも長期化させる可能性があったため、源氏と平氏の和睦を斡旋して、世の中を静謐させるのは「治天の君」の役割でもあったのです。

頼朝の密奏を受けた法皇は、西暦1181年(養和元年)8月、宗盛を内裏に呼び出し、頼朝の密奏内容を開示し、源氏との和睦を薦めました。

宗盛は

「御上の仰せ、誠に以って道理に存じます」

と法皇の言葉に畏まって平伏しました。
法皇はこれに大いに満足し、

「それなら、源氏と和睦するというのだな?」

と確かめるように言うと

「私一人の一存ならそれもできましょう」

と言い出し、法皇は怪訝な顔をしました。

「何が言いたいのだ」

宗盛は平伏していた頭を上げ、法皇に向き直ると

「亡き相国入道(清盛)はいまわの際にこう申しました。

『我が一門、一人でも生き残るものがあれば、その死骸を頼朝の前に晒せ』と。

つまり一族死に絶えるまで、源氏との戦争を続けよということでございます。恐れながら、御上の仰せなれど、こればかりは、勅命といえど、お受けできるものではござりませぬ」


と言上し、また深々と頭を下げました。

さすがの法皇も「亡き相国入道の遺言」を盾にされては、何も言えませんでした。
これにより源氏と平氏の和睦は露と消えましたが、法皇は朝廷における平家の影響力の弱体化については手を緩めませんでした。

西暦1182年(養和元年)1月1日、法皇は、亡き高倉天皇の中宮であった平徳子に院号宣下(建礼門院)をして安徳天皇の側から引き離し、同年9月には安徳天皇の准母の地位になった近衛通子を罷免して、法皇の第一皇女である亮子内親王を送り込みました。

亮子内親王は、当時の源氏再興の火付け役となった以仁王の姉でした。

この人事は、法皇が天皇を平家の手から取り戻すための意図だとは思いますが、平家に堂々と歯向かって散って諸国の源氏を焚きつけた以仁王の姉が、まさか自分たちの血を引く天皇の准母になるとは、平家一門的には非常に複雑な思いをしていたに違いありません。

一方、関東では、翌年の西暦1183年(養和改め寿永二年)2月23日、頼朝の御家人である小山朝政(下野国寒河御厨領主)と、新宮十郎行家(源行家)の兄・源義広(常陸国志田庄領主/通称;志田義広)下野国野木宮(栃木県下都賀郡野木町)で合戦となりました。

朝政には源範頼(頼朝異母弟)らが、義広には足利俊綱、忠綱(藤姓足利氏棟梁で、源姓足利氏とは別族)らが加わり、総兵力30,000を超える大軍が激突して、義広軍は大敗を喫し、常陸国、下野国などの所領を喪失しました。

これで関東一円はすべて頼朝の実効支配地域に入りました。
また、この頃には飢饉の影響もほぼ収束し、源平の軍事活動が活発になっていくのです。

(つづく)
posted by さんたま at 23:48| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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