2017年04月08日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(54)-源義仲-

西暦1181年(治承五年)4月現在、源氏の勢力は大きく3つに分かれていました。

1つ目は鎌倉を拠点として、上総、下総、武蔵、相模の4ヶ国を実効支配し、東国武士の支配体制を整えつつある河内源氏嫡流の源頼朝

2つ目は甲斐を拠点とし、頼朝と連携しながら駿河、遠江を実効支配し、東海地方での勢力の拡大を図ろうとしている甲斐源氏棟梁の武田信義

3つ目は、信濃国木曽谷を拠点とし、信濃の源氏勢力を束ねて、北陸の地方での勢力拡大を図ろうとしている河内源氏庶流の源義仲(通称:木曽義仲)

今回のお話は、この3つ目の勢力、源義仲のお話です。


源義仲は、父が源義賢で、頼朝の父・義朝と兄弟でした。つまり義仲は頼朝と従兄弟同士ということになります。

義賢は関東で勢力を築きつつあった兄・義朝を牽制する為、父・為義の命令で北関東に向かいますが、義朝の子・義平(通称:悪源太義平/頼朝の兄)に討たれて非業の死を遂げます。

義賢の遺児・駒王丸にも義平より「叔父御のガキ、ブッ殺せ」と殺害命令が下されていましたが、義賢に従っていた地方豪族・斎藤実盛(武蔵国長井荘領主)畠山重能(武蔵国大里郡畠山荘領主)らの手により、義平の手を逃れ、信濃権守・中原兼遠の元で養育されました。

ちなみにこの中原兼遠の娘が、巴御前であり、彼の息子が樋口兼光(子孫は直江兼続)です。

この駒王丸が成人して、源義仲となります。

西暦1180年(治承四年)以仁王の令旨(命令書)の発覚によって、源頼政(源三位頼政)が平氏政権に反旗を翻して挙兵しました。

すでに令旨を受けていた全国の源氏もこれに呼応して次々と挙兵し、義仲も同年9月7日、信濃国水内郡市原(長野県長野市若里)で起きた合戦で、平氏方の豪族・笠原頼直と信濃源氏・村上義直との戦いで歴史の表舞台に現れることになります。

この市原合戦は、笠原頼直(平氏方)VS村上義直(源氏方)の間に起きた1日の戦いで、日没とともに矢が尽きた義直が義仲に援軍を求めたので、義仲が軍勢を率いて駆けつけたところ、頼直が「こりゃ、かなわん」と戦意を消失させ、越後の城長茂を頼って撤退したという引き分けに近い形でした。

笠原氏は一刻も早く信濃に再度攻め入って、信濃の源氏勢力を一掃することを目的に長茂を頼ったようですが、彼は非常に器量の小さな男で、催促を受けても言を左右にのらりくらりと出兵要請をかわしていました。

しかし、年が変わって平家本体から一通の書状が長茂の元に届きます。
そこには

「昨年、お前のところに逃げ込んで来た笠原平吾(頼直)を保護してるのは非常にありがたいことだ。でも、お前、なぜ信濃に攻め込まんの?大義名分があるんだから、さっさと兵を動かして信濃を平定しなさい」

というキッツイ語調の内容が書かれていました。

この頃の平家は清盛が亡くなり、全国各地の平家の態勢はバラバラで、吉報は墨俣川の戦いに勝ったことぐらいでした。そして平家の台所事情は度重なる戦いで兵糧も尽きかけており、信濃の支配を取り戻して兵糧を手に入れるのは急務だったのです。

平家本体からの出兵催促が来ては無下にはできません。
西暦1181年(治承五年)6月、城長茂は10,000兵の軍勢を率いて信濃国に攻め入り、まず手始めに横田城(長野県長野市篠ノ井会)に布陣しました。

城長茂が信濃国に攻め入ったことを聞いた信濃源氏の諸将らは、連絡を取り合って横田城より50kmほど南の依田城(長野県上田市御岳堂)に集結し、北上を開始します。その数、3,000兵。

そして同月13日横田河原(長野県長野市篠ノ井横田付近の千曲川河原)において両軍が対峙しました。

兵力の差が3倍以上に及んでいるため、まともにぶつかっては信濃源氏軍に勝ち目はありませんでした。
しかし、義仲の味方で保科党という軍団を率いていた井上光盛が面白い策を立てました。

それは3,000兵のうち、2,000兵はこのまま正面に対峙し、残り1,000兵は光盛が指揮して城軍の背後に周り、奇襲をかけるというやり方でした。

しかし、10,000兵の陣に1,000兵程度の小勢で近づくなど自殺行為に他なりません。
他の諸将は反対しましたが、光盛はケロッとして

「いやいや、味方のように振舞って近づけばいいのですよ」

諸将はますます困惑を深めます.....

「これを出せばご理解いただけますかな?」

光盛が出したのは赤と白の2つの旗でした。
赤旗は平家の旗。白旗は源氏の旗です。
それを見た義仲はピーンときました。

「なるほど、赤旗を掲げながら敵に近付き、十分近づいたら白旗に掲げ直すということか」

「ご明察」


この光盛の作戦は大当たりでした。

城軍は、光盛らが率いている赤旗1,000兵の接近を「信濃の平氏軍が駆けつけた」としか見ませんでした。ところが、もともと信濃の平氏勢力だった笠原頼直らの目は誤魔化せませんでした。

「あれは、味方ではない!味方の旗を掲げている敵じゃあ!」

しかし、時、すでに遅しでした。十分接近していた光盛の軍勢は3隊に別れ、赤旗を捨てて白旗を掲げなおしました。

「敵襲じゃあ!」

3隊に別れた光盛の部隊は、そのまま敵の陣中に入って、油断していた敵陣をかき乱しました。

敵陣の中に喚声が上がったのを聞き取った本陣の義仲は

「今じゃ!全軍!かかれ!」

と総攻撃の下知を下しました。

義仲が指揮する2,000兵の兵が一気に城軍に攻めかかります。城軍も正面部隊は臨戦態勢にあり、2,000兵が来ようと全く動じることはありませんでしたが、戦いが進むにつれ、背後から聞こえてくる喚声に気勢を削がれ始めていました。

また越後から信濃までの軍旅の疲れもあり、すでに士気が上がりにくい状態になっており、ついに城軍は9,000兵近い損害(打ち取られただけでなく、戦線離脱した兵も含む)を出してしまいます。

城長茂は、わずが500程度の手勢に守られながら越後へ退却することになりました。
笠原頼直も戦線離脱し、高井郡(長野県須坂市、上高井郡、下高井郡の全域)に落ち延び、二度と歴史の表舞台には出てきませんでした。

越後に帰還した長茂でしたが、この戦いの後、味方はどんどん減っていき、さらに義仲が越後に侵攻してきた関係で、ついに越後を立ち退き、陸奥国会津郡(現在の南会津郡および会津若松市の大部分)に落ち延びました。

ところが、今度は奥州藤原氏から攻撃され、会津からも追われ、再び越後の片隅に生息する極小勢力にまで落ちぶれてしまうのです。

この戦いによって源義仲は信濃、越後両国に勢力を張ることができ、大きくその力を伸ばしました。これに付随する形で北陸の反平家活動は一気に活発化していきます。

(つづく)
posted by さんたま at 18:17| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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