2017年04月04日

本当はこうだった「大坂の陣」(最終回)-大坂の陣とは何だったのか-

足掛け3か月に渡って書いてきたこのシリーズも今回をもって最後になります。
最後のお題は「大坂の陣とは一体何だったのか」です。

日本近世史という観点から見れば、この戦いの後、西暦1637年(寛永14年)10月25日に「島原の乱」(日本最大の百姓一揆)が勃発するまで、軍事活動は起きておりません。

だからこの戦いは「戦国時代最後の戦い」と言われます。

事実だけ見れば、「徳川氏が征夷大将軍の将軍権力をもって、将軍権力に従わない一大名である豊臣秀頼を征伐した」ことになり、徳川氏が自身の権力基盤を確立するため「主筋」に当たる豊臣家を滅亡させたことになります。

しかし、私は思うのです。

本当に徳川家康は豊臣家を滅亡させたかったのか?

本当に滅亡させたかったのなら、冬の陣で和議などせず、あのまま大砲をブッ放し続けて、大坂城をガレキの山にし、大坂城と共に豊臣家を葬っていたと思うのです。

それをせず、和議に持ち込んだのは、豊臣秀吉から「秀頼を頼む」と言われていた家康の慈悲(孫娘千姫も関係)と、大坂城に集う「平和な時代を受け入れられない武士たち」を排除するための方策だったと思います。

当時、大坂城に入場していたのは、「関ヶ原の戦い」で西軍に味方して主家が領地没収となり、浪人となっていた武士、そして迫害されていたキリシタン信徒たちが多かったと言われています。

これらはいずれも「徳川家の天下では生きてはいけない人たち」でした。

家康の狙いとは裏腹に、和議締結後の豊臣家は大坂城に集う浪人たちを排除することができず、結果として京・大坂(特に朝廷)を不安に陥れ、再び武力衝突(夏の陣)が起きます。

徳川家は朝廷を安んじ奉る征夷大将軍職を拝命している関係上、大坂城の浪人の勝手振る舞いを許すことはできません。その棟梁であるこの時の家康は断腸の思いで完膚なきまで大坂城を叩き潰す覚悟だったと思います。

それでも、家康が本気で秀頼・淀殿の命まで取るつもりだったのかどうかは、正直わかりません。

一方で、征夷大将軍である徳川秀忠は豊臣家を許すつもりはなかったことは明らかでした。
秀忠は豊臣家の残党を密告したものには褒美を与え、秀頼の隠し子である国松を捕らえて斬首していることからそれがわかります。

しかし、同じ隠し子の娘は千姫(秀頼正室/秀忠娘)によって一命を救われ、千姫の養女にされ、成長後に東慶寺(神奈川県鎌倉市山ノ内1367/通称:縁切寺)の住職になっています。

また、大坂の陣の波及効果は徳川、豊臣だけでなく、全日本の大名の庶家にに広がっていました。
それをまとめとして書きたいと思います。

<越前北ノ庄藩(越前松平家)>
越前松平家は家康次男・結城秀康を祖とし、秀康亡き後はその嫡男である松平忠直(左近衛権少将)が当主となっていました。

忠直は「冬の陣」の戦いぶりが家康の叱責を受け、「夏の陣」では大和口方面軍大将:水野勝成を抜け駆けして天王寺口の最前線に立ち、真田勢と戦いました。

家臣の西尾宗次が真田信繁を討ち取り、また水野勝成と共に真田勢の本陣である茶臼山を陥落させ、大坂城にも一番乗りと目指しい戦功をあげましたが、将軍家の戦功評価(初花の茶壺と左近衛権中将への任官)に不満を持ち、徐々に将軍家に反抗する振る舞いをするようになります。

そして、大坂の陣から8年後の西暦1622年(元和8年)、忠直は自分の正室であり、将軍秀忠の三女である勝姫を斬殺しようと乱行に及びました。これが将軍家の耳に入ると、これ以外に表沙汰になっていなかった家臣への扱いの酷さなども露呈したため、翌年、将軍秀忠は忠直に強制隠居を命じました。

隠居後、出家した忠直は、同年5月、豊後府内藩(藩主:竹中重義)に流罪謹慎となり、西暦1650年(慶安三年)そのまま府内にて死去しました。
夏の陣の戦功第一のヒーローの終焉としてはあまりにも悲しいものでした。


<越後高田藩(長沢松平家)>
家康六男にして長沢松平家当主・松平忠輝(左近衛権少将)は、「夏の陣」で当初家康より大和口方面軍の総大将を仰せつかっていましたが、道明寺の戦いに遅参しました。その上、「夏の陣」後、家康の朝廷への戦勝参内の約束をすっぽかしたため、家康より「2度と対面は許さず」という厳しい処罰が下されました。

家康の死後、西暦1616年(元和二年)7月6日、忠輝は将軍秀忠から改易(領地没収)を命じられて伊勢国朝熊に流罪とされます。

忠輝はその後には飛騨高山藩、信濃諏訪藩と配流先を転々とし、2度と大名として復帰することなく、西暦1683年(天和三年)7月3日、諏訪高島城(南の丸)にて92歳で死去しました。


<陸奥仙台藩(伊達家)>
大坂城落城の際、伊達家家臣・片倉重綱(二代目小十郎/陸奥白石城主)が乱取りした娘の中に、真田信繁の娘(阿梅)がいました。当初は侍女として片倉家に仕えていましたが、父親が真田信繁とわかると重綱の側室として目をかけられ、正室・綾姫が亡くなった跡は継室に昇格しています。

阿梅は弟・大八や妹・阿昌蒲、於金などを仙台に呼び寄せており、大八は後に片倉の姓を名乗って「片倉守信」を名乗ってという300石取りの仙台藩士になっています(仙台真田家の祖)

また、長宗我部盛親の家臣・佐竹親直の妻、阿古姫とその子・輔丸も伊達家に乱取りされ、輔丸は元服したあとは柴田朝意と名乗り、仙台藩奉行職(いわゆる家老)まで上り詰めました。

なお、家康は、「冬の陣」の後、政宗庶子・秀宗(侍従)伊予国宇和島10万石の大名に取り立てています。
秀宗は、のちに幕末期に活躍する伊達宗城の祖先にあたります。


<豊前中津藩(細川家)>
細川忠興の次男・興秋が大坂方に与していましたため、忠興は興秋に切腹を命じました。


<摂津味舌藩(織田有楽家)>
元々有楽自身が3万石を領していましたが、夏の陣が終わった後、有楽は隠居し、有楽の所領は息子たちに分与されました。

四男・織田長政に1万石が分与され、摂津芝村藩を立藩。
五男・織田尚長に1万石が分与され、摂津柳本藩を立藩。
残り1万石は有楽斎本人が隠居料として手元に残しました(有楽死去後は没収されています)。


<伊勢亀山藩(奥平松平家)>
伊勢亀山5万石の藩主・松平忠明は、奥平信昌と家康長女・亀姫との間の子供で、家康の外孫にあたります。5歳で家康の養子となったため、松平の姓を許されました。

忠明は「冬の陣」で河内口方面の大将を勤め、和議が成立すると大坂城外堀・内堀の埋め立て奉行を担当し、「夏の陣」では道明寺の戦い、誉田の戦いで戦功をあげました。

これらの戦功を鑑み、将軍秀忠の命令で、忠明が摂津大坂藩を倍の10万石で立藩。大坂の陣で荒れ果てた大坂の復興を見事成し遂げ、西暦1619年(元和五年)に、大和郡山藩12万石に加増転封となりました。

忠明はその後、徳川幕府大政参与(のちの大老)となり、播磨姫路18万石に加増転封となって、西国の押さえとなります。越前松平家の松平忠直とはえらい違いです(汗)。


大坂の陣の終了により、日本国から戦争は無くなりました。
これを祈念し、同年7月13日、将軍家の奏上により、朝廷より「元和」改元の詔が発生られています。

皮肉にもこれは、禁中並公家諸法度に基づく最初の幕府の公式なる朝廷介入と言えるものでした。
(本来年号を改元するのは朝廷固有の権利で、公家と武家の意見の一致が必要だったため)

翌年、西暦1616年(元和二年)1月、家康は鷹狩りの途中で倒れ、同年4月17日に病死しました。

一般的には死因は「鯛の天ぷらに当たった食中毒」と言われていますが、医学的見地からそれは正しくなく(食中毒が原因で3か月も生き長らえるわけがない)、病状の中に胃癌末期の兆候が見られることから、おそらく既に症状が進んでいた胃癌の症状が、「鯛の天ぷらに当たった」ことによって加速させられ、死期を早めたと考えるのが正しいと思います。

大坂の陣のついては賛否両論あると思いますが、一つだけ確かなことがあります。
それは

「徳川家康は、200年間の長きに渡って、戦乱のない平和の世の中を作り上げた」

ということです。

(このシリーズ終わり)
posted by さんたま at 02:07| Comment(0) | 本当はこうだった「大坂の陣」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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