2017年04月01日

本当はこうだった「大坂の陣」(12)-岡山口の戦い(最終決戦)-

天王寺口で合戦が起きた正午頃、岡山口(大阪府大阪市生野区勝山北三丁目16/御勝山古墳)に着陣していた徳川方総大将・徳川秀忠(征夷大将軍)は、天王寺口の銃撃音を聞き

「始まったか.....」

とつぶやいて、全軍に進軍命令を出しました。

秀忠の進軍命令を受けた一番隊大将:前田忠常(右近衛少将・筑前守/加賀金沢120万石)は、豊臣方の岡山口大将:大野治房(大野治長弟)勢と戦闘状態に突入するものの、治房の一撃離脱ゲリラ戦法に翻弄され、大きく体勢を崩しかけていました。

これを支えるため、井伊直孝(掃部頭/近江彦根15万石)藤堂高虎(和泉守/伊勢津22万石)の若江口方面軍コンビが脇より援軍として参入。

しかし、この2大名は先の若江・八尾の戦い大損害を受けて兵数を減らし、また疲労の度合いも高く、士気が満足に上がっていなかったため、治房のゲリラ戦法を食い止めることができず、ついに陣を抜かれてしまうのです。

治房が目指したのは総大将・徳川秀忠の本陣。
一番隊大将の前田利常、二番隊大将の井伊直孝が抜かれ、秀忠本陣の前に旗本先手大将を務めるは土井利勝(大炊頭/下総佐倉4万5000石)でしたが、これもなんとかギリギリ持ちこたえている状態でした。

そこに一番隊後方に付けていた黒田長政(筑前守/筑前福岡52万3000石)加藤嘉明(左馬助/伊予松山20万石)らが秀忠本陣に駆けつけ、土井利勝勢を助けます。

秀忠はこの隙に本陣の後退を命じますが、家康より参謀として付けられた立花宗茂(左近将監/陸奥棚倉3万5000石)

「先ほどは進軍しろといい、負けそうになったら後退しろと言う。総大将がそんな腰の座らない状態でどうなさいますか。」

と叱責し

「上様、よくご覧なされ。敵は前田殿、井伊殿、藤堂殿と戦って大炊頭(土井利勝)まで兵を進めてきましたが、黒田筑前殿(長政)、加藤左馬助殿(嘉明)の助力でこれ以上は進んでは来ません。また、味方の援軍はあれど敵の援軍は見当たりません。つまり、敵は疲れております。よって、この左近(宗茂)、ここで本陣を後退させれば、味方の士気を下げ、時の勢いを失うと諫言仕りまする。」

と諫言し、これに秀忠の筆頭老中である本多正信(佐渡守/相模玉縄1万石)

「左近(宗茂)殿の申し状、誠にもって至極道理。大局的に見ればこの戦、負けるわけがござらん。よって上様はどっしりと構えるが上策でござりまする」

と口添えしたため、秀忠も反論できなくなりました。

この時の本多正信の見立ては的確でした。

確かに前田勢は崩れ、井伊、藤堂も疲弊しておりました。しかし、この岡山口には一番隊大将:前田利常の指揮下には先の黒田長政、加藤嘉明だけではなく、本多康俊(縫殿助/三河西尾2万石)、本多康紀(伊勢守/三河岡崎5万石)らが、また二番隊には細川忠興(越中守/豊前中津39万9000石)などの大名の兵力が温存されておりました。

それゆえ、局地的な戦いでは敗れているものの、大局的に見れば不安要素は全くない状態だったのです。

これは秀忠と宗茂・正信との戦の経験値の違いの表れと考えられます。

また、天王寺口の真田信繁や岡山口の大野治房が、ここまで強引に軍勢の押し込みをしたのは、豊臣方優勢を目に見せることで、大坂城内の豊臣秀頼の出馬を促したいという目的があったからでした。
秀頼自身の出馬は、徳川方に味方する豊臣恩顧の大名を裏切らせる要因になると予測していたのです。

これが豊臣方の最後の賭けでした。
そしてそれを誰よりも待ち望んでいたのが、四天王寺北東に着陣していた大野治長大坂城七手組の面々でした。

では、この時の大坂城内はどうなっていたかというと、秀頼の出馬に対し、生母・淀殿が頑強に反対していました。

結局、秀頼の出馬まで現場の戦いは持ちこたえられませんでした。
治房は秀忠本陣の手前まで押し込むものの、疲労と兵力の消耗が激しく、岡山口より残存兵力をまとめて撤退。
途中で天王寺口の毛利勝永と合流し、大坂城に撤退しました。この時、午後3時あたりでした。


撤退したとはいえ、内堀、外堀のほぼ全てを埋められた大坂城は、城としての防御能力はほぼゼロであり、ましてや、真田信繁、後藤基次、木村重成などの有力武将を失った豊臣方にとって、城の周りを包囲する徳川方に対抗する方策はありませんでした。

大坂城に攻め寄せて城内に一番乗りを果たした徳川方は、松平忠直(左近衛権少将/越前北ノ庄75万石)でした。雪崩を打ったように押し入った徳川方は大坂城内の略奪を始めます。

そして午後4時前後には何者かの手引きによって、大坂城に火の手が上がり、それは天守にも燃え広がりました。

炎は夜通し大坂城を焼きつきし、西暦1615年(慶長二十年)5月7日深夜、大坂城は陥落したのです。

秀頼や淀殿、大蔵局、毛利勝永、大野治長、大野治房らは、本丸から山里曲輪(大阪府大阪市中央区大坂城1-1)に身を移していました。

そしてこの時、大野治長は、「今回の乱の責任は自分にある。自分が切腹するので秀頼と淀殿の命は助けてほしい」とする助命嘆願の書状を秀頼正室・千姫(家康孫/秀忠長女)を託して、逃しています。

千姫は徳川家康の本陣に連れて行かれ、秀頼・淀殿の助命嘆願を家康に願います。この時、家康は秀頼の命だけは助けるつもりだったと言われますが、秀忠は二度に渡る乱の首謀者を許すことはできぬとして、山里曲輪に鉄砲隊を送り込み、無数の鉄砲玉を打ち込みました。

この鉄砲玉が家康の返答であり、曲輪をすべて鉄砲隊に囲まれていることを悟った秀頼と淀殿は、進退極まって自害して果てました。

ここに豊臣宗家は滅亡したのです。

(つづく)
posted by さんたま at 17:30| Comment(0) | 本当はこうだった「大坂の陣」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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