2017年04月01日

本当はこうだった「大坂の陣」(11)-天王寺口の戦い(真田信繁散る)-

誉田の戦いの後、大坂城に引き上げた豊臣方は、軍議の結果、迫り来る徳川勢力とまともに戦うのは不利と考え、城を出て野戦にて戦い、隙を見て総大将である徳川秀忠・徳川家康を急襲するという戦法をとることで一致しました。

徳川方は、大和口方面軍と河内路方面(若江・八尾方面)軍が合流し、紀州路から駆け付けた浅野長晟(但馬守/紀伊和歌山37万6000石)が加わって、ほぼ全軍が阿倍野、勝間、桑津(大阪市西成区、阿倍野市区、東住吉区付近)に集合・展開していました。

豊臣方は最前線を天王寺口の茶臼山(大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1/現在の茶臼山古墳)に定め、紀州街道の浅野勢と阿倍野付近の松平忠直勢に当たるため、茶臼山南方に真田信繁(幸村)ら3,500兵が陣を敷きました。

茶臼山を挟んで北方には江原高次(宇喜多秀家家臣)、槇島重利(豊臣家奏者番)、細川興秋(細川忠興次男)らが着陣。

その真田勢の東方を守るべく、庚申堂(大阪府大阪市天王寺区上本町6丁目/庚申堂公園)の南方に、渡辺糺(秀頼槍術指南役/真田信繁寄騎)、大谷吉治(大谷吉継嫡男)、伊木遠雄(真田信繁寄騎)ら2,000兵が着陣。

その後方(四天王寺南門)には毛利勝永(豊臣譜代家臣)ら6,500兵が着陣。
桑津・岡山方面の徳川秀忠本陣に対しては、大野治房・大野治長ら大坂城七手組(大坂城詰衆)が10,000兵近くを率いてこれに対峙しました。

また、遊撃隊として明石全登(元宇喜多家臣)が300兵を率いて、大坂城の西方、木津川堤防付近に着陣しました。

対する徳川方の陣は

天王寺口(大阪府大阪市天王寺区南部)
一番隊大将:本多忠朝(出雲守/上総大多喜5万石)5,500兵
二番隊大将:榊原康勝(遠江守/上野館林10万石)5,400兵
三番隊大将:酒井家次(宮内大輔/上野高崎5万石)5,300兵
本陣:徳川家康(大御所)15,000兵

岡山口(大阪府大阪市生野区勝山北三丁目16/御勝山古墳)
一番隊大将:前田利常(右近衛少将・筑前守/加賀金沢120万石)20,000兵
二番隊大将:井伊直孝(掃部頭/近江彦根15万石)7,500兵
本陣:徳川秀忠(征夷大将軍)23,000兵

このほかに紀州街道口に浅野長晟、伊達政宗(陸奥守/陸奥仙台62万石)、松平忠輝(左近衛少将/越後高田75万石)、そして阿倍野付近には、松平忠直(左近衛権少将/越前北ノ庄75万石)と大和口大将である水野勝成(日向守/三河刈谷3万石)らが着陣していました。

誰の目にも豊臣・徳川の総力戦であることは明らかでした。

戦いは突然、正午頃始まりました。
豊臣方・毛利勝永の手勢と徳川方・本多忠朝勢の間に小競り合いが起き、それが徐々に大きくなって銃撃戦に発展したのがきっかけでした。

両軍共に士気は十分に高まっており、いつ始まってもおかしくない緊迫感に満ち満ちていました。
それゆえ、茶臼山の真田信繁は小競り合いが始まったことを聞くと、勝永に「敵の挑発に乗るな」と伝令しました。

しかし、緊迫している空気は、小競り合いが戦いに発展するのにそれほど時間はかかりませんでした。
勝永は信繁の伝令通りにひたすら自重していましたが、銃撃戦レベルまでになってくると、応じないわけにはいかず、これがトリガーとなって天王寺口に着陣していた両軍の全兵力が一気にぶつかり始めたのです。

毛利勝永は、本多勢を攻め続けてこれを破り、本多忠朝は討ち取られて徳川方の一番隊が崩壊します。
その影響を受け、同じ一番隊に属していた秋田実季(秋田城介/常陸宍戸5万石)浅野長重(浅野長晟弟/采女正/下野真岡2万石)も大損害を受けますが、長重の小姓・大石良勝などが奮戦し、毛利勢に一矢報いています。

大石良勝はこの戦功で1500石取りの浅野家の永代筆頭家老になります。この良勝の孫が、のちに「忠臣蔵」で活躍する大石良雄(内蔵助)です。

話を戦場に戻します。

本多忠朝が討ち取られ、本多勢が崩れようとするのを、二番隊に属する小笠原秀政(信濃守/信濃松本8万石)とその子・忠脩が救援に入りました。

しかし、毛利勢は亡き後藤基次(又兵衛)木村重成の残存兵を擁しており、これが非常に精強で、忠脩は討死、秀政は重傷という「ミイラ取りがミイラになる」事態に陥ってしまいます。

徳川方一番隊が完全に壊滅し、勢いづいた豊臣方の軍勢が二番手大将・榊原康勝らの軍勢に攻めかかります。泰勝は思いもしない一番隊の壊滅に狼狽しながら、敵の勢い強く長く支えること叶わず、二番隊も壊滅。

さらに三番隊も雪崩を打ったかのように壊滅し、気がつけば徳川家康の本陣前はガラ空きになっていました。

一方、茶臼山南の真田信繁は、天王寺口の松平忠直と戦っていました。

松平忠直は、家康次男で結城家当主・結城秀康の嫡男で、非常に気性が激しい人物であると伝わっています。

前年の「大坂冬の陣」では戦の指揮を家康に咎められたため、この戦いで汚名返上の思いを強く持っていました。本来、阿倍野近辺には大和口大将の水野勝成を配置されていましたが、将軍家に許しも得ず、抜け駆けして水野隊の前に出、真田勢と戦っていました。

忠直は真田勢と戦いながら、軍勢の一部を茶臼山の脇を抜けて大坂城へ向けました。

真田勢は目の前の敵が大坂城に向けて進んでくるのを見、これを防がんとしましたが、徳川方の一番隊、二番隊、三番隊が崩れ、家康の馬印が見えると

「これはチャンス!」

と考え、騎馬の一団を率い、家康の本陣に向けて進軍を開始します。
しかし、茶臼山の西方・紀州街道沿いには浅野長晟、伊達政宗、松平忠輝の軍勢が温存されており、これに対する備えをおろそかにすれば茶臼山の真田本陣が落ちる可能性がありました。

そこで信繁が立てた策が、徳川方に「浅野が裏切った」という虚報を報じることでした。

浅野長晟は紀州街道の最南に陣を敷いており、もし本当に浅野が裏切ったら、浅野の手前、すなわち勝間村、天下茶屋近辺に着陣している松平忠輝、伊達政宗らは挟み撃ちにされてしまいます。

真田勢は徳川方の軍勢にあたりながら

「浅野但馬守が裏切ったぞー!」

と叫び回ったため、天下茶屋、勝間付近の徳川勢に動揺を与え、攻めの動きを封じてしまいました。
徳川方の攻めの動きが鈍ったのを見届けた信繁は、すぐさま家康本陣への攻撃を開始します。

驚いたのは家康本陣です。
豊臣方・毛利勝永勢によって一番隊、二番隊、三番隊を重ねた三重の構えがもろくも崩れ去り、本陣がガラ空きになるというのは家康も経験のない状況でした。

ましてや、本陣の中の旗本連中は実戦の経験がほとんどない者ばかり、そこに赤備えの真田勢が攻めかかってくるというのですからパニックなるのは必定です。

しかし、歴戦の大将・家康はなかなか動じませんでした。
攻め寄せる真田勢の攻撃を察知し、騎馬で後方へ逃げるという判断を咄嗟に下しています。

ただ、現場の旗本衆は右往左往するばかりで、これまで倒れたことないという家康の馬印が倒されてしまったため、「すわ、本陣陥落か?」と徳川方の諸将が危ぶんだ時もありました。

また家康が騎馬で逃げたため、真田勢の騎馬武者からは容易に捕捉されてしまい、家康は幾度となく切腹を口走ったと言われます。

その家康を救ったのは、松平忠直に出し抜かれた水野勝成率いる大和路方面軍でした。

前述の通り、勝成の前線にいた松平忠直は、軍勢の一部を大坂城に向けて進めていたため、その防備は弱く、そこを真田勢に突かれて家康本陣への侵入を許してしまっていました。

加えて、真田の「浅野裏切り」の虚報が忠直の軍勢の動きを鈍くしていました。

勝成ら大和口方面軍は、忠直勢の中に入って真田勢の攻めを支え、一方で本多忠政(美濃守/伊勢桑名10万石)、松平忠明(下総守/伊勢亀山5万石)らを本陣の援軍として差し向けています。

結果として、信繁は家康をある程度まで追い詰めましたが、忠政・忠明の援軍が横から入り、家康の追撃を足止めされてしまいます。

その間に勝成と忠直は真田勢の本陣である茶臼山を陥落させ、取って返して、忠政・忠明が足止めしている信繁らを後方から追撃するという見事な機動力を発揮していました。

勝成、忠政、忠明の3方向が攻撃され、信繁率いる真田勢はついに壊滅してしまいます。

信繁は戦場から離れ、安井神社(大阪府大阪市天王寺区逢阪)で戦いに疲れた体を休ませていたところを、松平忠直の鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、討たれたと言われます。

茶臼山の陥落、そして真田勢の壊滅は、天王寺口戦いの勝敗を決定的なものにしました。
これまで天王寺口の最前線で軍勢を指揮して戦っていたのが、真田信繁と毛利勝永の二将とその寄騎だけだったからです。

勝永はこの戦いで、徳川方の一番隊、二番隊、三番隊を壊滅させ、およそ10以上の大名の軍勢を悉く退けてきました。しかしそれは真田勢と連携することでできたことと言っても良いものでした。

しかしその真田勢が壊滅したとあっては、徳川方の攻撃を一身で受け止めなくてはならず、衆寡敵せず、勝永はジリジリと大坂城に後退せざる得ない状況に追い込まれていくのでした。

この時、遊撃隊として動いていた明石全登は、松平忠直勢に突撃を敢行しています。これが勝永の撤退に有利に働いたのは言うまでもありません。

この時の全登の奮戦ぶりは見事なもので、一時は忠直隊の態勢を崩すほどでした。

しかし、忠直隊を中から支えていた水野勝成が自ら前面に出て再び押し返し、逆に全登勢を壊滅に追い込んでいます。この時以後、明石全登は行方不明となってしまうのです。

(つづく)
posted by さんたま at 02:34| Comment(0) | 本当はこうだった「大坂の陣」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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