2017年03月05日

本当はこうだった「大坂の陣」(9)-長宗我部、藤堂高虎に一矢報いる-

5月6日の早朝、豊臣方の木村重成若江村(大阪府東大阪市若江南町付近)に到着した頃、もう一人の大将・長宗我部盛親は、若江村の6km程度南西の久宝寺村(大阪府八尾市久宝寺町一帯)に到着していました。

そして、長宗我部勢の先鋒を務めていた吉田重親(内匠頭/土佐吉田氏/元長宗我部家臣)は手勢を率いて、長瀬川を越え、久宝寺村の北東にある萱振村(大阪府八尾市萱振町)に向かい、木村勢の後詰に向かいつつありました。

しかし、その途中の八尾村(大阪府八尾市本町地区)で、すでに木村勢の動きを察知していた藤堂高虎(和泉守/伊勢津22万石)勢の一軍・藤堂高吉(宮内少輔/丹羽長秀三男・高虎養子/今治2万石)の勢力と衝突し、合戦に突入してしまいました。

重親は兵力や武器(火器)で形勢不利を悟ると、本隊の盛親宛に伝令を発し、自らは盾となって高吉勢にぶつかって、重親勢は全滅。重親も討ち死にしてしまいます。

重親が放った決死の伝令は無事に盛親の元に届いたため、久宝寺村を出発した盛親は無謀な進軍を止め、長瀬川の川岸に着陣し、高吉勢の迎撃体制を整えることができました。

一方、藤堂高虎は、高吉勢が吉田重親を討ち取ったことで、藤堂良勝(高虎の従兄弟)勢が偵察した木村勢以外に、後続軍が続いていることを察知しました。

そのため、道明寺に向かって南進させていた藤堂家家臣・藤堂高刑(仁右衛門/高虎甥)を大将に、桑名吉成(弥次兵衛/元長宗我部家臣)藤堂氏勝(勘解由)らを付けて西へ転進させ、八尾村方面の敵の攻略を命じます。

対する盛親は騎馬武者もすべて下馬させ、槍を持たせて長瀬川の堤防の上に伏兵として配置させました。

藤堂高刑勢は全く警戒することなく長瀬川を渡り堤を越えました。

盛親は高刑勢の先手が堤を渡り、本隊が堤にさしかかるところで

「かかれーーーー!」

と号令をかけ、伏兵として伏せていた長宗我部の槍隊が一斉に槍を地上に向けて突き刺しました。結果、高刑本隊の手勢が崩れ、侍大将クラスが次々と槍の串刺しに。
びっくりしたのは先手を任されていた桑名吉成です。自分の後ろの本隊で悲鳴が上がるわけですから。

吉成も驚いて振り返りますが、すでに一糸乱れぬ長宗我部槍隊が喚声を上げて吉成に向かってきていました。先手と本隊が分断され、その上、本隊の主だった侍大将は槍襖の餌食にされており、藤堂勢の戦力はすでに半減してしまっていました。

「もはやこれまでか......」

吉成は、馬を返して長宗我部槍隊の中に切り込み、討ち死して果てました。

桑名吉成は元は長宗我部家臣でした。盛親の父・長宗我部元親の四国平定事業に功績を上げ、中村城(高知県四万十川市)を預かっていましたが、関ヶ原の合戦で長宗我部氏が改易(領地没収)になると、時代の流れを悟って、長宗我部の家臣たちの反乱を説得し、その後、藤堂高虎の家臣になっていました。

なので、吉成にとっては盛親は旧主に当たり、旧主に刃を向けることに当たることから、吉成がこの戦いで自殺したという説もあるようです。

長宗我部勢の槍隊は、藤堂高刑勢の本隊を四散させて壊滅状態に陥れました。

前述の通り、桑名吉成はもちろん、大将である藤堂高刑、藤堂氏勝も戦死。
藤堂高吉も高虎の命令を受けて援軍として駆けつけましたが、一糸乱れぬ長宗我部勢に圧倒され、十分な戦果を上げることができませんでした。

戦闘は正午あたりまで続き、長宗我部勢は最初に着陣した長瀬川の堤から一歩も退くことなく、藤堂高虎勢を見事に撃退しました。藤堂勢は一旦、撤退し、長宗我部勢は長瀬川の陣所にて、午後の戦いに備えて休息しておりました。

そこに驚くべき知らせが届きます。
それは若江村方面で戦っていた木村重成が、井伊直孝隊の攻撃で壊滅し、討ち取られたという報告でした。

若江村の木村重成隊が壊滅したということは、午後からの戦いは、徳川本隊の先鋒である井伊直孝(掃部頭/近江彦根15万石)・藤堂高虎の二大名を長宗我部勢のみで相手しなくてならないということになります。
藤堂勢を蹴散らして戦勝に沸いていた長宗我部勢を取り巻く形勢は、一気に圧倒的不利に陥りました。

それでも盛親は長瀬川から動くことなく、状況を見守るつもりでしたが、午後に入り、藤堂勢に加え、赤備えの井伊勢が加わった一団が長瀬川方面に向かってくるのが見えると

「これはまずい......」

と考え、即座に全軍に大坂城への撤退を命じました。

盛親は長瀬川を放棄して、最初の久宝寺村まで撤退し、そこで敵をなんとか食い止めて撤退の時間稼ぎをしようとしますが、絶対的兵力が違う上に、徳川方には「井伊の赤鬼」という最強軍団が加わっています。どう考えても壊滅必至の状況でした。

その時、長宗我部軍の後詰として後ろに控えていた増田盛次(豊臣家五奉行・増田長盛の次男)が殿軍(敵の追撃を阻止し、大将を逃すこと)を務め、小勢ながら藤堂・井伊勢に立ち向かっていきました。

これによって、長宗我部勢はなんとか久宝寺村を脱出し、大坂城へ撤退することに成功しました。
そして殿軍を務めた増田盛次は、藤堂高虎家臣・磯野行尚(近江高島郡領主・磯野員昌の孫)に討ち取られています。

この「若江の戦い」と「八尾の戦い」で、徳川方の井伊直孝と藤堂高虎は大きな損害を受けました。特に藤堂高虎の死傷者は600人(高虎が率いていた兵のおよそ10%)にものぼると言われ、この後の天王寺・岡山合戦の先鋒を辞退せざるえない状況でした。

そして豊臣方も木村重成勢が壊滅し、重成は討ち死。長宗我部勢も再び出陣ができないほど兵を失っており、盛親はこの後の軍事行動が記録にありません。

また、「八尾の戦い」が起きてる頃、道明寺方面では、後藤基次を失った真田信繁(幸村)の戦いが始まろうとしてました。

(つづく)
posted by さんたま at 16:31| Comment(0) | 本当はこうだった「大坂の陣」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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