2017年03月04日

本当はこうだった「大坂の陣」(8)-若江の戦い(木村重成の死)-

西暦1615年(慶長二十年)5月6日、道明寺村あたりで後藤基次(又兵衛)が徳川方を相手に一人で戦っていた同じ頃、豊臣方の木村重成(長門守)長曾我部盛親(前土佐国主)の二人は、徳川方の河内路方面軍を相手に若江村(大阪府東大阪市若江南町付近)で戦っていました。

前々回で説明した通り、徳川方は今回、大和路方面、河内路方面、紀伊方面の3方向から大坂城を目指していました。そしてこの河内路方面軍こそが秀忠・家康という総大将を擁した本軍とも言えるものでした。これら総勢55,000。

これに気づいた木村重成は、5月5日、秀忠・家康の本陣を偵察で確認し、総大将の脇腹を突く大胆な作戦を立てました。

翌日5月6日午前0時、重成は家臣らを率いて若江村方面向けて進軍を開始。しかし重成の練兵の精度が悪く、行軍は遅れに遅れました。この行軍の遅れが藤堂高虎(和泉守/伊勢津22万石)に捕捉される要因になってしまいました。

午前4時頃、藤堂高虎軍の藤堂良勝(高虎の従兄弟)が若江に向かう豊臣軍を発見しました。

報告を受けた高虎は将軍家より「勝手な戦闘は禁止」と命令されていましたが、良勝が「豊臣方の目的は上様(将軍秀忠)と大御所(家康)様。これを放置するわけにはいかぬ」という進言をうけ、命令違反を決断、各隊に進撃を命じました。

午前5時頃、木村重成勢はようやく若江村に着陣。先鋒を3手に分け、重成の家臣である内藤長秋山口弘定らにこれを率いさせました。

これに先ほどの藤堂良勝勢が攻めかかり、合戦が勃発。
木村勢先鋒はよく戦って、見事、良勝勢を壊滅させました。

重成は次なる戦いに備えるため、良勝勢との戦いで傷ついた残存兵を本隊に収容すると共に、若江村東方の玉串川の西岸上(現在の大阪府道15号線西側)に鉄砲隊を配置して次なる戦に備えようとしました。

しかし、先ほどの小競り合いは、徳川方にとって敵が若江村まで出張ってきているのを、各将に知らしめるのに十分でした。

午前7時頃、井伊直孝は、南への進軍を中止し、西の若江村方面に転進させると、家臣である庵原朝昌川手良利の両人に兵を率させて、先鋒として玉串川の東岸(現在の大阪府道15号線東側)に兵を展開させました。

すると、対する西岸にはちょうど木村勢が鉄砲隊を展開中で、川を挟んで両軍が鉢合わせとなりました。
木村勢は突然現れた井伊勢に即座に対応できず、庵原・川手両軍が素早く鉄砲隊の一斉射撃を行って先制攻撃を仕掛けると、木村勢は岸の西に撤退。すかさず庵原・川手両軍が玉串川西岸を占拠しました。

庵原は本隊の到着までこの西岸を守ろうとしますが、川手はそれに従わず、自らの手勢のみを率いて、木村重成の本軍へ突っ込んで行ってしまいます。

この川手良利という武将は、先の「大坂冬の陣」「真田丸の戦い」において、徳川方の軍法を守り、勝手な攻撃をしなかったのですが、結果としては勝手に攻めかかった武将だけが功を賞されたことに不満を持っていました。それゆえ、この夏の陣では何としても戦功が欲しかったようです。

川手隊が木村勢に突撃したことを聞いた庵原は慌てて後追いするものの、川手勢は壊滅良利は討ち死にしていました。

しかし川手勢の突撃は木村勢の士気に大いに影響を与えました。
木村重成自身の練兵や指揮の甘さという部分はあるものの、川手の捨て身の獅子奮迅の活躍の上、庵原の勢力が後追いで加わった為、藤堂良勝勢を打ち破って士気が上がっていた木村勢もジリジリと後退せざる得なくなっていました。

青木久矩、飯島太郎左衛門、同三郎左衛門など重成の家臣が次々と討ち死にしていく中、井伊勢も前述の川手良利だけでなく、ワケありで井伊勢に加わっていた山口重信(元将軍家家臣)も討ち死し、その激戦の凄まじさがよくわかります。

そして、木村勢先鋒の内藤長秋、山口弘定の軍も崩れ、本隊を守る前衛が全てなくなった後、木村重成は自ら槍を取って馬上の人となり、討ち死にしました。享年23だったと言われています。

討ち取ったのは庵原朝昌とも安藤重勝とも言われていますが、確かなことはわかっていません。

この戦いの首実検で重成の首級が家康に届けられると、頭髪に香が焚きこめてあり、この所作は「武士は討ち取られた後の不様な姿を晒さない」という覚悟と矜持を表していたと評されています。

重成の墓は大阪府八尾市の八尾幸公園(大阪府八尾市幸町6丁目2番地)の中にあります。ただ、ここは彼が討ち死にした場所ではありません。

1965年(昭和40年)から始まった寝屋川・恩智川の水害対策の一環で、元々木村重成の墓があった旧楠根川の流域は、第二寝屋川を開削する関係でなくなったため、現在地に移築したものです。

この辺りは大坂の陣当時は様々な川が流れており、そのほとんどが現在は消滅、または縮小されていため、現在地を特定するのも非常に骨が折れます。

次回は木村重成と共に出陣したもう一人の大将・長宗我部盛親の戦いは次の回です。

(つづく)
posted by さんたま at 18:33| Comment(0) | 本当はこうだった「大坂の陣」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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