2017年02月19日

本当はこうだった「大坂の陣」(7)-後藤基次の死-

西暦1615年(慶長二十年)4月26日、豊臣方は、大野治房(大野治長弟)箸尾高春(治長配下、元筒井家家臣)ら約2000の兵を郡山城(現在の奈良県大和郡山市城内町)に向けて出陣させました。

郡山城は大坂城の東南東に位置し、かつて豊臣秀吉の弟である豊臣秀長(大和大納言)の居城でした。

この時は、秀長の与力であった筒井定次の従兄弟の筒井順慶(大和郡山1万石)が城主となっていました。
定次が改易(領地没収)された後、筒井氏は一時滅亡の危機でしたが、家康の後押しで順慶が家督を相続した関係もあり、郡山城は徳川方の城になっていました。

大坂城は外堀を埋められているため、徳川方に対抗する押さえの城として、大和郡山城を自陣に入れておきたいという都合があり、豊臣に着くように使者を送りましたが、順慶は豊臣方の要請に応諾しなかったため、やむなく攻め落とすことにしたのです。

順慶は敵兵力を見誤りって、城を捨てて退散したため、27日未明、郡山城は落城しました。

治房は28日、堺を焼き討ちにし、徳川方の兵站(補給)基地を破壊。

この時代、小勢で大勢に当たるのに「糧道を断つ」という戦法は定石でした。
治房は、この勢いで奈良地域も焼き討ちにしようと兵馬を進めますが、徳川方の先発隊で、大和口方面軍司令官の水野勝成(日向守/三河刈谷3万石)に阻止され、一旦大坂城に引き上げざる得なくなっています。

また、この頃、大野治長は密偵を放って紀伊国の国人を扇動して一揆を起こす裏工作を同時に行っていました。
この時、紀伊国を治めていたのは浅野長晟(但馬守/浅野長政の次男/紀伊和歌山37万6000石)でした。

長晟は領内に豊臣方の密偵が多く入り込み、一揆の不安があるのを承知しつつ、家康の要請で4月28日、大坂城に向けて5000兵を率いて出陣していました。

その途中、紀伊攻めに出兵していた大野治房隊の先発である塙直之(団右衛門)岡部則綱(大学)と鉢合わせになったため、合戦が発生。

直之と大学は本隊の到着を待たず、手柄を上げんと独断で猪突猛進したため、軍勢の指揮系統は混乱してしまいます。

先発隊で合戦が始まったことを知った治房が駆け付けた時にはすでに遅く、直之は討ち死にしていました。
そして、治長が仕掛けた策謀も、一揆の首謀者が和歌山藩の留守居役に捕えられて、あえなく終了(汗)。
治房は大坂城に引き上げるしかありませんでした。

4月30日、治房が水野勝成軍と接触したことから、徳川方の軍勢が大和路方面(現在の大阪府道30号大阪和泉泉南線)から攻めかかることを知った豊臣方は、河内平野に入る手前の石川を挟んだ東岸あたりで、徳川方の先発隊を迎え討つ作戦を立てました。

5月1日、第一陣の大将・後藤基次(又兵衛)、他、薄田兼相(隼人正)明石全登ら6,400兵が大坂城から出陣。続く第二陣の大将・真田信繁(幸村)毛利勝永ら12,000兵も出陣。

豊臣方の主力が出陣したと聞いた家康は、5月5日、家康は「そろそろかの」と京都二条城を出立、大坂に向けて出陣しました。

また同日、豊臣方第一陣、第二陣は平野村(現在の大阪市平野区)に野営し、軍議を行い、国分村(現在の大阪市柏原市国分付近)の見通しの悪い狭路に敵を誘い込んで殲滅することを決めました。

5月6日未明、後藤基次指揮の2,800兵は道明寺(現在の大阪市藤井寺市道明寺)に到着しました。
名実ともに一番乗りを狙った行動でしたが、そこで基次は石川を渡った北東の片山村(現在の大阪市柏原市片山町)付近に徳川方の先発隊(おそらく水野勝成)がすでに展開していたのです。

基次や信繁たちの昨夜の軍議では、戦いの舞台は国分村を想定しており、その国分村は片山村の南東にあります。つまり、先発隊が片山まで出張っているということは国分村はすでに徳川方の手中に入っているということに他なりませんでした。

基次ら豊臣方は知りませんが、実は水野勝成は昨日5日の夕方には、一番隊の諸将率いて国分村で野営をしていたのです。

「策、敗れたか......」

自分たちの作戦が意味のないものになったことを悟った基次は、ここで独断行動をとることを決めました。
基次は石川を渡り小松山(現在の大阪市柏原市玉手町の玉手山公園)に登ってそこに陣を張りました。

水野勝成は、小松山に豊臣方の先発隊が入ったことを知ると、これを

二番隊大将・本多忠政(美濃守/本多忠勝嫡男/伊勢桑名10万石)
三番隊大将・松平忠明(侍従・下総守/奥平松平家祖/伊勢亀山5万石)
四番隊大将・伊達政宗(陸奥守/陸奥仙台62万石)


に急ぎ伝達。大和方面軍司令官として、小松山を包囲することを各隊に命じます。

しかし、動くのは基次の方が早く、午前4時頃、基次は一番隊麾下の松倉重政(豊後守/大和五条1万石)奥田忠次(徳川幕府旗本/大和・紀伊2,800石)に対し攻撃を開始しました。

基次の攻めは非常に素早く、あっと言う間に奥田忠次は戦死。その影響で松倉勢も押されて体勢が崩れかかりますが、一番隊の本軍である水野勝成の助勢でこれをなんとか支えました。

基次の考えは、小松山に布陣し高所から敵を攻撃することで地の利を生かし、兵力の不利を補おうというものでした。その間に薄田兼相や明石全登の後続隊、そして第二軍の真田信繁の到着となれば、これが徳川方に援軍として映り、徳川方の士気低下を招くと考えたのです。

しかし、敵をひきつけるにはあまりにも無謀な策と言えました。
一番隊の水野勝成は3,800兵ほどですが、二番隊の本多忠政、三番隊の松平忠明、四番隊の伊達政宗らが小松山を包囲するとその総勢は20,000兵を超えていました。

また、徳川方は火器が充実しており、特に四番隊伊達政宗家臣・片倉重綱(二代目小十郎/陸奥白石城主)が率いる鉄砲隊は、槍の基次には苦しい相手と言わざる得ませんでした。

戦闘開始から6時間を経過しても、豊臣方の後続隊は現れませんでした。
一説によると、この日は早朝から非常に濃い霧が発生しており、後続隊は前後不覚に陥っていたと言われますが、本当にそうだったかはわかりません。

援軍が見込めないことを察した基次は、戦いで傷ついた兵たちに西側から山を降りて立ち去るように言うと、戦えそうな兵のみを集めて、一気に小松山をかけおり、三番隊の松平忠明の陣に目がけて最後の突撃を開始しました。

忠明も全軍を押し出して基次にあたりました。しかし忠明らは基次の敵ではありませんでした。
二度、三度と忠明の軍を押し返し、さらに押し出して忠明の軍勢の隊形を大きく崩そうとしたところ、左脇より一番隊の丹羽氏信(式部少輔/三河伊保1万石)の攻撃を受けて陣形が大きく崩れ、さらに右脇より四番隊の片倉重綱鉄砲隊が撃ちかかってきました。

ここで基次は不覚にも被弾してしまいました。
ここが死に場所と心得た基次は、被弾しつつもまだ槍を振るう姿は、徳川方にはまさに鬼神のごとく映りました。しかし、衆寡敵せず、正午過ぎに後藤基次隊は壊滅。基次も討ち死にしました。

薄田兼相、明石全登、真田信繁が小松山に到着したのはその直後のことでした。

(つづく)
posted by さんたま at 17:05| Comment(0) | 本当はこうだった「大坂の陣」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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