2017年02月06日

本当はこうだった「大坂の陣」(6)-戦火再び-

「大坂冬の陣」の和議成立後、徳川家康

松平忠明(侍従・下野守/奥平松平家/伊勢亀山5万石)
本多忠政(美濃守/本多忠勝嫡男/伊勢桑名10万石)
本多康紀(伊勢守/三河岡崎5万石)


上記3名に、大坂城の二の丸・三の丸破却と堀の埋め立てを命じて、居城である駿府城(静岡)に向かいました。
同じ頃、秀忠も江戸(東京)に向かって出発しています。

この時の堀の埋め立ては「惣構」ですので、いわゆる城の外堀(真田丸の北側)が対象になっています。

歴史漫画や他のドラマなどで、「徳川が豊臣を騙して内堀も埋めた」と言われていますが、これについては一次史料が見当たらず、現在では後世の創作の可能性が高いとされています。

したがって、二の丸、三の丸破却と惣構えの堀の埋め立ては、豊臣方も納得の上で行われた可能性が高いです。ただし、浪人衆がどのように思われたかは定かではありません。ですが、徳川に一泡ふかせるために集まった浪人たちにとって、自分たちの拠り所である大坂城の防御力が下がる工事が行われることは、愉快ではなかったでしょう。

その鬱憤は、大坂並びに京で発散されることになります。

西暦1615年(慶長二十年)3月15日、京都所司代(現在の京都府警本部長)・板倉勝重(伊賀守/近江山城1万6000石)より駿府城の家康に手紙が届きます。

内容は、大坂市中での浪人の乱暴狼藉から始まり、京には「大坂の浪人たちが御所や伏見、二条などへ放火する」などの風聞が絶えず、治安維持が困難な状態になっていること。また大坂城の浪人たちは堀の掘り返しを行っていることなどが書かれてありました。

豊臣家譜代衆らは、浪人たちが和議に納得していないのは承知していました。そのため、浪人たちの戦意を消失させる必要があり、二の丸、三の丸の破却、惣構の堀の埋め立てを申し出ました。

浪人たちは大坂城が難攻不落の城だからこそ夢見るのであり、その防御力が格段に落ちれば、おとなしくなると思ったのでしょう。

ところが、効果は裏目に出てしまいました。
京都市中の治安維持は京都所司代の責任であり、それは幕府の責任であります。大阪市中の話ならまだしも、事が京にまで及ぶとなると、家康も無視できなくなりました。

ついに家康は、将軍秀忠の名前で豊臣家に浪人の解雇と所替え(領地を別の場所に振り返ること)を命じました。

これは家康の豊臣家に対する温情だと思います。
単に豊臣家を潰すだけなら、この一件を以って、すぐに出陣して殲滅するでしょう。

でも家康は「先の戦いの根源である浪人たちを解雇すれば、豊臣家の罪は問わない」と言っています。
そして浪人たちが夢見ているのは「大阪城」という存在があるからで、そこから移してしまえば観念するだろうと考えたのだと思います。

しかし、万が一(放火)のことを考え、4月1日、小笠原秀政(兵部大輔/信濃松本8万石)に兵を率いて伏見城代として入城するように命じています。

4月4日、家康は、自身の九男・徳川義直(左近衛権中将/尾張名古屋53万石)と、故・浅野幸長(紀伊守/紀州和歌山37万6000石)の娘・春姫との結婚式に出席するため、駿府を出発しました。

ところが、その道中において、豊臣家の使者(大野治長家臣)が面会を求め「浪人の解雇はすでに始めておりますが時間がかかります。それまでは所替えは勘弁してください」と申し出てきたのです。

家康はその申し出を聞き「追って沙汰する」として使者をその場から大坂に返しました。

豊臣家に巣食う病巣の根本は浪人と大坂城。
浪人の解雇は後からでもなんとでもなりますが、秀頼が大坂城に居続けるか限り、浪人の戦意は決して落ちません。そして浪人の解雇が済むまで秀頼は大坂城を出る気はないというのは、時間稼ぎに他なりませんでした。

京・大坂の治安が乱れており、朝廷も不安視している今、家康が取るべき策はもう1つしかありませんでした。

武力による浪人衆と大坂城の駆除です。

「是非もなし(やむえない)」

家康は、江戸の将軍秀忠に早馬を出し、再度の大阪攻めを伝え、諸大名に京に集結するように命令を下しました。

一方、大坂城では、大野治長が家康に使いを送って戦争を回避しようとする行動に城内の不満が高まり、4月9日、治長が城内で襲撃されています。しかし4月12日になると、家康が諸大名に出陣を命じたことを豊臣方も知ることとなり、武具の購入、堀の掘り返しなどが急ぎ行われました。

ところが浪人の解雇も進めており、10万近くいた大坂城中の浪人は、すでに8万弱まで減っていたのです。
兵力も下がり、本丸と内堀だけでは数十万の軍勢相手に籠城戦は不利です。そこで浪人衆は城から討て出て野戦に持ち込む作戦を立てました。

4月12日、義直の結婚式を終えた家康はそのまま京へ向かい、18日、二条城(京都)に入ります。
将軍秀忠も4月21日に二条城に到着。翌22日、家康、秀忠らと軍議を行っています。

この軍議の場で、家康は徳川方の軍を3つに分け、河内路(現在の国道25号線、桑津付近)、大和路(現在の大阪府道30号大阪和泉泉南線、阿倍野付近)、紀州路(現在の国道26号線、天下茶屋付近)の三方向から大坂城に攻め入る方策を立てました。

前回とは変わって、家康の攻撃に積極性がみられます。
もう彼に迷いはありませんでした。

そして、この頃、織田長益(有楽斎/織田信長弟)が嫡男頼長を連れ、大坂城を離れて家康の陣所を訪ねています。

長益の離反ははっきりしたことはわかりませんが、彼が大阪冬の陣の和議の仲介役であること、その和議が決裂して再び戦いになったことに対する責任と、人質に出してる五男・尚長の命を助けるためではなかったかと私は思っています。

もし、あのまま長益が大坂城にいたまま戦いが始まったら、尚長は殺されていたかもしれません。長益は豊臣家の繁栄のために死ぬならともかく、勝ちが見えない戦いで殺されたら無駄死にでしかないとわかっていたのではないかでしょうか。

風雲急を告げる大坂城。いよいよ豊臣家最後の戦い・大坂夏の陣が始まろうとしています。

(つづく)
posted by さんたま at 22:24| Comment(0) | 本当はこうだった「大坂の陣」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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