2017年02月05日

本当はこうだった「大坂の陣」(5)-和議工作(大坂冬の陣終結)-

徳川家康が本気で大坂城を攻め落とす気があったかなかったは賛否両論別れるところですが、私はこの「冬の陣」に関しては「なかった」と考えています。

それは、家康が本陣を住吉から茶臼山に移した後の12月3日、織田長益(有楽斎/織田信長の弟)を通じて、和平交渉を行っているところから明らかです。

大河ドラマ「真田丸」では、浪人を蔑み、徳川方に内通していた武将として描かれていましたが、史実では、この時の長益は豊臣家の客将にすぎず、何の実権も持っていませんでした。

また、長益は関ヶ原の戦いでは、東軍(家康)に味方していたため、家康とも繋がりがあり、和議の仲介役としてはうってつけの人材だったのです。
もちろん、徳川家に内通していたとかはドラマの脚色です。

家康の意向を受けて動いていたのは家康の懐刀であり、本多正信の嫡男である本多正純(上野介/下野小山3万3000石)。豊臣方の全権大使は大野治長でした。長益はその仲介役という立ち位置だったと思われます。

また和議を望んだ徳川方には、食糧の調達が容易ではないという現実的な問題も抱えていたのです。


西暦1614年(慶長十九年)12月9日、家康が、以前より幕府関東代官の伊奈忠政(右馬助/武蔵小室1万3000石)に命じていた「淀川の川の流れを変える土木工作」が完了しました。

伊奈忠政は、関東代官として新田開発や河川改修などを得意としており、その彼の土木技術が如何なく発揮されました。これより、淀川の深さは膝下まで下がったと言われます。

同日、家康は各大名に酉の刻(暮れ六ツ/午後5−6時)、戌の刻(午後7ー8時)、寅の刻(午前3−4時)に、鬨の声と鉄砲の一斉発射を命じ、連日これを続けたため、大坂城に籠城する豊臣方を不安と不眠に落とし込みました。

また、家康は、この頃より大砲を用いての大坂城の南側への射撃も実施しており、豊臣方が城からうって出れないように牽制しております。その隙をついて豊臣方の諸大名の仕寄(攻城設備)を徐々に大坂城に近づけています。

ここから先は家康の各種工作の独壇場でした。

10日、大坂城に降伏を促す矢文を発射。
11日、甲斐の金山衆を動員し、大坂城南方より土塁や石垣を破壊する為の坑道の掘削を開始。
12日、徳川方の全権大使・本多正純と、豊臣方の全権大使、大野治長が、和議の水面下交渉開始。
13日、家康大名一人につき50本の熊手付き梯子を配布。船場の堀の埋め立て。

城を包囲し、徐々にその輪を緩やかに締めつつ、同時に和議交渉を進めていく(この時の和議交渉は一切浪人衆には知らされておりません)。硬柔併せ持つ家康のしたたかな戦法が見て取れます。さらに駄目押しとして、豊臣方武将への調略も行われておりました。

「真田丸」でも描かれたように、家康は真田信尹(真田信繁の叔父)を使って、真田信繁(幸村)を徳川軍に寝返らせるような工作を行っていますが、それはこの時期に行われております。

去る12日の交渉で徳川方から豊臣方に出された和議の水面下交渉の条件候補に「淀殿の江戸下向」がありました。要するに淀殿を江戸に人質に差し出せということです。

この条件について豊臣方(おそらく織田長益)から「淀殿が人質として江戸に行く替わりに、浪人のために所領の加増してほしい」という引き換え条件が15日、本多正純に伝えられ、家康に取次ましたが、家康はこれを拒否しました。

家康としては、この戦いの根本は大坂城に集まった浪人衆(というよりキリシタン)であり、その解体が狙いでした。それゆえ、浪人衆を養う領地を与えるつもりは毛頭なかったのです。

家康が拒否ったことで、和議は暗礁に乗り上げましたが、家康は和議を確実なものにするため、翌16日、徳川方の諸大名全軍より大坂城に向けて一斉砲撃開始しました。

火縄銃はもとより、鉄製の大砲、さらにイギリス、オランダから購入した大砲も総動員してあらん限りの火器を投入したとみられます。

対する大坂城の豊臣方は近づいてくる徳川方に火縄銃で対抗しますが、この頃には徳川方の仕寄が10間(ほぼ20〜30メートル)近くに迫っており、土塁や塹壕に阻まれてので、ほとんど火縄銃の効果はなかったと思われます。

大河ドラマでよく見られる淀殿が武具を着て表内番所に激励に出向いたと言われるのはこの頃です。

現実的な話をすると、この時の大坂城は徳川方の攻撃を防ぐのが精一杯で、抗う方法はほぼなくなっていました。

徳川方は食糧補給・調達に苦労していましたが、それは豊臣側も同じでした。加えて弾薬も減り始め、徳川方の鬨の声や砲撃によって精神的に不安定になったり、不眠で疲労が蓄積していました。

そして和議が決定的になったのは、16日の徳川方の大砲射撃が大坂城本丸に直撃し、その時淀殿についていた侍女が全員死んでしまったことでした。淀殿はこれにショックを受け、大野治長が水面下で進めていた和議交渉を急ぎまとめるように指示しています。

淀殿意向を受けた治長は本多正純と連絡を取り、翌々日の18日、徳川方の京極忠高(左近衛権少将/若狭小浜9万2000石)の陣において、正式な和議交渉が開始となります。

徳川方は本多正純、そして阿茶局(家康側室/徳川家奥向き総取締)。豊臣方は常高院(京極忠次正室/忠高義母/淀殿妹)が出席しています。
(ドラマのように大蔵卿局が出席したかどうかは確かなことが私にはわかりませんでした)

和議の条件は、豊臣方からは「以後、徳川(幕府)と戦をしない」意志の表れとして

「本丸のみを残し、二の丸、三の丸を破却」
「惣構(大坂城の外郭)の南堀、西堀、東堀を埋め立て」

と、「淀殿江戸下向」は受け入れ難しとして、そのかわりに

「大野修理(治長)、織田有楽斎(長益)の息子を人質として江戸に下向させる」

ことを条件提示としました。

それを受けた徳川方からは
「前右府様(秀頼)の命は取らない」
「豊臣家の所領はこれまで通り本領安堵」
「浪人についてはあずかり知らぬ」

という3点が条件として出されました。

これらをそれぞれの主に持ち帰り、19日に条件同意。20日に誓紙取りかわしと異例のスピードで進行しています。これは徳川、豊臣両者がいかに和睦を望んでいたかの表れだったと考えられます。

ちなみに16日から20日に至る4日間の間、徳川方の砲撃はずっと続いていました。

大坂城の浪人衆が全てを知ったのは和議の条件提示が出された18日ぐらいのようでした。大将格である真田信繁、後藤基次、毛利勝永、明石全登、長曾我部盛親は到底納得しなかったものの、淀殿の強い意向であることから異議が認められなかったようです。

こうして、大坂冬の陣は終結したものの、徳川と豊臣の関係は未だこじれたままでした。

(つづく)
posted by さんたま at 15:20| Comment(0) | 本当はこうだった「大坂の陣」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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