2017年01月07日

本当はこうだった「大坂の陣」(2)-大坂冬の陣の始まり-

豊臣譜代家臣の「籠城論」に対し、浪人衆は「主戦論」でした。
戦って手柄立てないと浪人衆は出世できないですし、家康に恨みを晴らすこともできないからです。

なので、浪人衆の中の一人、真田信繁は、大河ドラマ「真田丸」で描かれたような、

@瀬田川まで進軍して徳川軍を迎え撃ち、大坂へ入れさせないように足止めする。
A豊臣恩顧の大名に檄を飛ばし続け、大坂に味方するように大名翻意を仕掛ける。
Bこれらが封じられたもしくは成果がない時に籠城する。


という野戦作戦を立てましたが、秀頼(というか豊臣家)の裁断は「籠城戦」となりました。

そんな豊臣方の動きを知ってか知らずか、徳川方は着々と戦準備を始めています。

西暦1614年(慶長十九年)10月11日、大御所・徳川家康は居城・駿府城を出発。
23日、家康、二条城に入城。
同日、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠、6万の軍勢で江戸城を出発。
25日、家康、藤堂高虎(和泉守/伊勢津22万石)と片桐且元(東市正/大和竜田1万石?)に先鋒を命ず。

同年11月10日、秀忠、伏見城に到着。
(※この時、江戸から伏見まで17日間で走破。結果的に兵は疲労困憊。家康はゆっくり来いと命令していたのを無視したため、激怒したと言われます)
15日、家康、二条城を出発。奈良経由で大坂に向かう。
18日、秀忠と茶臼山で合流。軍議。

なお、前の回に書きましたが、家康に味方する大名で、福島政則、黒田長政、蜂須賀家政ら主だった豊臣恩顧の大名は、江戸留守居役を命じられています。

家康と秀忠が茶臼山で軍議をしている頃、蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の嫡男/阿波守/阿波徳島25万7000石)木津川(大阪市南西部を流れる淀川水系の川、大坂城の西の外堀の役割を果たしている)あたりを偵察し、砦を発見(以後「木津川砦」と言います)。そこに敵兵らしきものが駐屯していたことが認められることから、将軍家に報告し、攻撃許可を求めました。

将軍家は、至鎮の妻が家康の養女であることから、手柄を立てさせてやりたい反面、命を落とさぬように配慮し独断での攻撃は許可しませんでした。しかし、

「浅野但馬(浅野長晟/紀伊和歌山藩37万6000石)と池田宮内(池田忠雄/淡路洲本6万石)との共同作戦ならOK」

という条件つきの許可を出しました。

浅野長晟は、秀吉の妹婿・浅野長政の孫です。
池田忠雄は、織田信長の乳兄弟・池田恒興の孫で、家康次女・督姫の次男です。

あくまでも至鎮が独断専行しないようにとの将軍家の配慮でしたが、木津川砦を発見したのは至鎮であり、優先攻撃権も至鎮が持つのは当然でした。その攻撃を浅野や池田と共同でというのは、手柄を横取りされてしまう可能性もあり、至鎮にとっては大いに不満でした。

しかし、至鎮はある考えにたどり着きます。

「そっかぁ。あいつらには何も言わず黙って勝手に攻め入ればいいんだ。手柄あげれば将軍家も何も言わないだろう。」

そして至鎮は即・行動に移ります。
11月19日夜、至鎮は軍勢を率いて木津川砦に単独奇襲を実行。
木津川砦の守将は明石全登(掃部/元・宇喜多秀家家臣)でしたが、たまたま全登が大坂城に登城していたため、守将がおらず、砦の指揮命令系統はメチャクチャで、木津川砦はあっけなく陥落しました。

これが「大坂冬の陣」の始まりでした。

11月25日、家康は、大坂城の北東、大和川北の今福村に出城を築き、大和川、平野川辺り一帯の押さえにするように、上杉景勝(会津中納言/出羽米沢30万石)、堀尾忠晴(山城守/出雲松江24万石)、丹羽長重(加賀守/常陸古渡1万石)、榊原康勝(遠江守/上野館林11万石)に出陣を命じました。

豊臣方は、徳川方が今福村と大和川南の鴫野村を狙ってくることは予想しており、鴫野村には三重の柵を築いて、井上頼次(秀頼黄母衣衆)が守将として守っていました。

11月26日早朝、上杉景勝5000兵が鴫野柵へ攻撃を開始。井上頼次は鉄砲隊2000兵で反撃したものの、衆寡敵せず第3の柵まで攻め込まれ討ち死。しかし大坂城から大野治長ら12,000兵が援軍に駆けつけ、上杉勢第1陣の須田長義を敗退させました。

しかし、上杉勢第2陣の水原親憲が怒声を放って自軍を二つに分け、須田敗退させた豊臣方援軍に鉄砲の一斉射撃をかけて、豊臣方援軍を足止めし、脇から同じく第2陣の安田能元の槍隊が攻めかかって体勢を崩した豊臣方援軍は大坂城に退却せざる得ませんでした。

鴫野柵は上杉勢が見事占拠しましたが、家康は景勝に守将を堀尾忠晴と交替して休息しろと命じました。
しかし、景勝は

「武士の家に生まれ先陣を争い、今朝より身を粉にして奪い取った柵を、将軍家の命令とは言え他人に任せることはできません」

として拒否したと伝えられています。


一方の今福村においても、豊臣方は、堀と柵を構築して、矢野正倫(和泉守/元・伯耆米子17万5000石中村家家臣)、飯田家貞ら600兵で守備させていました。

鴫野柵に上杉勢が攻め掛かっていた頃、佐竹義宣(右京大夫/出羽久保田20万石)が1500兵を率いて、今福柵に攻撃を開始します。これも衆寡敵せず、矢野も飯田も討ち死し、大坂城から木村重成が援軍として駆けつけ、戦局は拮抗した状態のまま時が過ぎました。

もう一押しだと思った大坂城の秀頼は後藤又兵衛に出撃を命令。駆けつけた後藤又兵衛は木村重成と協力して、見事佐竹勢を押し返しました。この時、佐竹家家老・渋江政光が討ち死しています。

このまま押し返し、今福柵の豊臣方奪還なるかと思われましたが、態勢を崩して壊滅し掛かっていた佐竹勢は、対岸の鴫野柵攻撃隊(上杉、堀尾、丹羽、榊原)に援軍を求めました。

すでに鴫野柵の攻略を終えていた攻撃隊は、佐竹の要請を受け、大和川の川中まで進み、一斉に豊臣方に銃撃を浴びせました。木村重成はそれに呼応して攻めかかろうとしますが、後藤又兵衛がそれを止め、形勢不利を悟り、そのまま大坂城に退却しました。

豊臣方は、この1日で、今福、鴫野を徳川方に奪われ、大坂城の北東の守りが手薄になりました。
豊臣方は、じわじわと徳川の包囲網が内に迫ってくるのを感じざる得ませんでした。

(続く)
posted by さんたま at 12:48| Comment(0) | 本当はこうだった「大坂の陣」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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