2017年01月05日

本当はこうだった「大坂の陣」(1)-豊臣と徳川の背景事情と方向性-

大河ドラマ「真田丸」が終了し、真田丸ロス症候群が続発してるようです。

ドラマが始まった後から色んな人から「あれは史実なのか?」とか色々聞かれるんですが、現在のところ、そんなに大幅にずれたことはやってなかったように思います(学術的にどうかは置いといて)

それに、歴史ドラマというのは「史実と史実の間をドラマで補填する」から面白いものだと思っております。
(かといって「江」や「なんとかの桜」は言うのも憚られますが......)

また、「大阪の陣」をあれだけ劇的に且つ何週間にも渡って丁寧に描いた大河ドラマはこれまでなかったでしょう。
※注:「真田太平記」は大河ドラマ枠ではありません。

というわけで、じゃあ、実際はどういう戦いだったのかというのを、史実面から解き明かしてみたいと思います。
まず、なぜ「大坂の陣」が勃発したのかについては、以前書いた私のコラムをごらんください。


▼真田丸解体新書(12)なぜ「大坂冬の陣」は起きたのか?(前編)
http://rekidorama.seesaa.net/article/442486140.html
▼真田丸解体新書(13)なぜ「大坂冬の陣」は起きたのか?(中編)
http://rekidorama.seesaa.net/article/442855232.html
▼真田丸解体新書(14)なぜ「大坂冬の陣」は起きたのか?(後編)
http://rekidorama.seesaa.net/article/444109979.html


そうやって勃発した大坂の陣ですが、史実を紐解いていくと、豊臣方と徳川方、双方ともに最初から相当、難儀な背景を抱えた戦いでした。

西暦1614年(慶長十九年)9月26日、豊臣家重臣・片桐且元の失脚を「手切れ」と判断した家康は、豊臣家に対し「必要以上の浪人を雇い、天下に乱を生じさせようとしている」として宣戦布告を行います。

この時、実は豊臣家だけではなく、将軍家内部にも問題を抱えていたのです。

まず、徳川幕府2代将軍・秀忠家康六男・松平忠輝(上総介/越後高田75万石)兄弟の不仲です。
秀忠のバックには家康が、忠輝のバックには舅・伊達政宗(陸奥守/陸奥仙台62万石の大名)が控えており、東北に反乱の火種を抱えていました。

また、西暦1612年(慶長十七年)キリシタン大名の有馬晴信(修理大夫/肥前日野江4万石)が、旧領回復のために幕府重臣本多正純の家臣・岡本大八に賄賂を贈った贈収賄事件(通称:岡本大八事件)が発覚。

その取り調べ中に、大八の口から、晴信が幕府長崎奉行・長谷川藤広の暗殺計画を立てていたことが発覚したため、晴信は切腹。裏にキリシタンが絡んでいたことから、幕府はキリスト教禁教令を発布し、キリシタン弾圧に乗り出しました。

その結果、多くのキリシタン武将が浪人となり、それらが大坂城に入城していました。

家康は、前述の松平忠輝と妻・五郎八姫(伊達政宗長女)が夫婦揃ってキリシタンだったため、大坂城に入城したされたキリシタン勢力と忠輝が結びついて、幕府に謀反を起こされると、未だ徳川家に心から臣従していない豊臣恩顧の大名が謀反に同調することを恐れていました。

家康は、徳川家の主筋に当たる豊臣家を武家として自らの指揮下に組み込むのではなく、公家として立ちゆくように取り計らうつもりでしたが、豊臣家が浪人を雇い入れ、その中にキリシタン勢力も組み込まれると、もはや国政を預かる「為政者」として見逃すことはできなくなったのです。

一方、家康が宣戦布告を行った後の豊臣家は「前右大臣・豊臣秀頼」の名前で全国の旧豊臣大名や関ヶ原で浪人になった武将たちに片っ端から手紙を送り、対徳川との戦争準備を大っぴらに行い始めました。

「真田丸」では、さかんに秀頼のことを「右大臣」と呼んでいますが、秀頼は西暦1607年(慶長十二年)1月11日付で右大臣を辞職しているため、この場合は「前右大臣(さきのうだいじん)」が正しいと思われます
※異説では慶長十三年に左大臣に昇ったという文書はありますが、これはさらに考察が求められます。

西暦1614年(慶長十九年)10月2日、豊臣家は兵糧の買い入れと諸大名の大阪蔵屋敷から貯蓄されていた蔵米の強奪を行い、当面の兵糧不足を補いました。

しかし、豊臣家が心の底から望んだのは、浪人ではなく、旧豊臣恩顧の大名の入城でした。
ですが、兵を率いて大阪城に馳せ参じる旧豊臣恩顧の大名は一人としておりませんでした。

旧豊臣恩顧の大名の筆頭格であった

浅野長政(秀吉義弟/侍従/常陸真壁5万石)
浅野幸長(長政嫡男/紀伊守/紀伊和歌山37万石)
加藤清正(秀吉の親戚/侍従・肥後守/肥後隈本52万石)


らに加え、豊臣家三中老だった

堀尾吉晴(帯刀/出雲富田24万石)
中村一氏(式部少輔/駿河府中14万石)
生駒親正(雅楽頭/讃岐高松17万1,800石)


らも既に亡くなっており、豊臣家五大老の一人で、加賀100万石を領する前田利長(権中納言)も同年5月20日に亡くなっていました。

薩摩・大隅・日向諸県(現在の鹿児島県全域と宮崎県南西部)65万石の島津家久(大隅守)に至っては

「豊臣家への義理は一度(関ヶ原)で果たした」

と、けんもほろろ。
(注:島津家は徳川家から関ヶ原の西軍味方を追求された時、「あれは義弘個人が勝手にやったことで島津家とは無関係」と言いのがれておきながらこの始末(苦笑))

ですが、ただ1大名だけが、危険を承知で大坂城に支援を送っていました。

それは、かつては中国地方120万石の大大名でしたが、今や周防・長門(現在の山口県)36万石の平大名に落ちぶれた毛利家です。

当主・毛利輝元は、執政・毛利秀元(輝元養子・長門櫛崎城主)と共謀して、毛利家の親戚である内藤家当主・内藤元盛に軍資金と兵糧を託し、大坂城に送り込みました。

ただ、普通に入城すれば身元がバレて毛利家に迷惑がかかリます。なので、元盛は入城前に名前を「佐野道可」と改め、見事、大坂城に入城したのです。

決して毛利家としての公式の兵力が大坂城に入ったわけではありませんでしたが、記録に残っている豊臣恩顧大名の意向を受けた支援は、毛利家の佐野道可ぐらいで、あとは安芸廣島50万石の福島正則が大阪蔵屋敷を進んで明け渡したぐらいのようです(他にもご存知の方がいらっしゃれば、お教えください)

多くの豊臣恩顧の大名は家康に臣従していましたが、家康も「背後から鉄砲撃ちかけられてはかなわん」と思い、前述の福島正則を始め、豊臣家に縁の深そうな

加藤嘉明(左馬助/伊予松山10万石)
平野長泰(遠江守/大和国十市郡5000石)
黒田長政(筑前守/筑前福岡52万石)
蜂須賀家政(阿波守/阿波徳島18万石)


上記の武将たちには、江戸留守居役を命じて大坂に行けなくしてしまいました。
ただ、その武将の子弟の出陣は認めました。

そんな状況ですから、大坂城には一軍の将として兵馬を引き連れた大名は一人もなく、関ヶ原で取り潰された大名の家人や、立身出世を夢見る浪人レベルの数だけはたくさん集まり、文字通り「烏合の衆」と化していました。

そして「真田信繁も浪人の烏合の衆と同じレベル」だったのだと私は思います(少なくともこの時点では)。

そして、最も不幸だったのは、豊臣家譜代家臣(大野治長、速水守久ら通称「七手組」たち)と、浪人衆とで、目指すべき方向性が全く違っていたことでした。

豊臣家譜代家臣たちは、籠城戦を主張しました。

淀川水系を天然の外堀とし、その豊かな水を利用した内堀を構えた大坂城は、当時としては最大級の防御能力を備えていたと考えられます。

徳川方の兵力が日本中の大名が統率する連合軍である以上、こちらがいかに浪人衆を集めたところで、真っ向からぶつかれば互いに兵力を消耗します。その場合、後の兵力の補充のきかない豊臣方が不利です。

籠城戦になれば、遠方から出張ってきている徳川方には補給(兵糧、水など)の問題が生じます。長引けば長引くほど物資はなくなり、大名の懐は寒くなり、大名の中には戦に飽き始める者を出るかもしれません。そのタイミングで和議を結ぶというものです。

大野治長ら豊臣譜代家臣の目的は「豊家存続」なので、これで目的は達したことになります。

しかし、浪人衆の目的は手柄を立てて、立身出世や徳川に一泡ふかせることですので、籠城戦では全く満たされないことになります。

このベクトルの違いが最初の不幸だったのです。

(続く)
posted by さんたま at 00:33| Comment(0) | 本当はこうだった「大坂の陣」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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