2016年12月18日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(53)-義絶-

西暦1181年(治承五年)4月25日、美濃国墨俣川(現在の長良川/岐阜県大垣市墨俣付近)において、源行家軍6,000騎は、平重衡率いる頼朝追討軍30,000騎が川を挟んで向かい合っていました。

兵力で圧倒的に不利である行家は、兵力を3分割して夜間奇襲を敢行しますが、源頼朝の援軍として行家につけられた源義円が、行家の指揮を無視して独断専行したため、義円は討死。

行家の作戦も全て無駄となり、行家は自軍の頼みとしていた源頼元、頼康、重光の3将を討死させてしまいました。

行家自身は頼元、頼康の決死の働きにより、墨俣川を渡河して熱田(愛知県名古屋市熱田区)まで撤退することに成功。その後、体制を立て直して矢矧川(現:矢作川)で再び平重衡軍と対峙しますが、行家はここでも重衡に大敗し、自勢力を維持することすら困難になってしまいます。

行家相手に勝利を続け、勢い盛んな平家はこの勢いで東国まで進出し、頼朝の首をあげようと気炎をあげます。

しかし、東国より頼朝の本体として和田義盛(三浦氏庶流・侍所長官)が遠江(静岡県西部)進軍中するという動きが伝えられると、平家側も戦力を消耗した状態で義盛の本体と戦うのはリスクになることから、近江、美濃、三河国中部までの支配を固めて、京へ撤退しました。

この頃の頼朝は、すでに鎌倉の地に「大倉御所」(神奈川県鎌倉市二階堂付近)と呼ばれる政務所兼邸宅を建設し、頼朝に馳せ参じた武士たちを家人として抱え、また家人の軍事・統率期間として「侍所(さむらいどころ)」を設置し、その長官(別当)職に和田義盛が任じられていました。

この時点で後の「鎌倉幕府」の原型が整いつつありました。

さて、近江源氏、美濃源氏、尾張源氏を結集し、討伐軍として東国に派遣された平重衡を撃退して、頼朝に己の存在を認めさせ、源氏諸勢力の仲間入りをしようと企んだ行家でしたが、墨俣川、熱田、矢矧川などの一連の戦いで自分の勢力の殆どを失ってしまいました。


そんな行家が頼る先は、甥・頼朝しかありませんでした。
行家が自分の野望のための戦いに、頼朝は異母弟・義円に2000騎をつけて援軍として派遣してくれたのも頼朝のでした。頼朝としては、源氏内部における行家の発言力を牽制する目的がありましたが、行家は知る由もありません。

しかし、その義円も討死した今、頼朝からすれば

「よくも俺の弟を殺しやがったな」

と、逆に行家が抹殺されるかもしれない相手になっています。

ですが、そんな状況であっても助力を頼むあたりが、行家が行家たるところです。
行家の思考回路を一言で説明すれば「目的のためには手段も選ばん」自己中心万歳な思考と言えるでしょう。

頼朝から見れば、行家は叔父(頼朝の父・義朝の異母弟)にあたることもあり、朝廷とは別の「東国の武士政権」を目指す頼朝にとって、同じ源氏一族としては無下にはできません。なので、頼朝は当分の食い扶持として、相模国松田(神奈川県足柄上郡松田町)に住まわせ、衣食住には困らないように面倒を見ました。

これに不満だったのが行家です。

「おれは甥に厄介になりにきたのではない」
「自分の勢力を作れる最初の手助けだけしてくれれば良いのだ(叔父・甥の関係なら当然だろう)」
「おれは京の公家衆ともつながりがある。頼朝が東国に独立政権を作りたいなら俺は利用価値があるはずだ」


という感じに、自らの目的を達成するために、自分勝手な思考をするようになります。

当時の頼朝は、父の仇である平家討伐を一旦押しとどめ、上総氏、千葉氏、三浦氏などの要請で自分を中心とした中央集権的な東国武士政権を打ち立てたいと考えていました。それを理想とする鎌倉武士にとって、頼朝は主上であり、頼朝より上位に位置する行家の存在は、この政権構想上、邪魔でしかなかったのです。

ただ、黙って松田に住んでいれば頼朝も鎌倉武士らに対し、申し訳が立っていたのですが、そうはいかない事件が起きてしまいます。

行家が頼朝に対し「鎌倉武士の一人として相応の所領を賜りたい」という申し出てきたのです。

行家は、東国には頼朝、甲信越・東海には武田信義(甲斐源氏棟梁)がおり、そして北陸には源義仲(木曽義仲)がいる中、これら源氏の力を結集し、頼朝を頂点とする仕組みを早急に作らねばならないと平家は倒せない、と主張していました。

そしてそのために、近江・美濃あたりに自分が勢力を築くことで、琵琶湖より東の源氏の支配下を磐石にできると。

しかし、今は松田に隠棲している身であるため、兵馬を整える財力もない。そのため、一定の収入が見込める領地が欲しいと書かれてありました。

なんという厚かましい考えでしょう。
これに激怒したのが他ならぬ頼朝でした。

「自分勝手に平家と戦をし、俺の弟を死なせて自勢力も失い、食客に落ちぶれているのを叔父・甥の関係で面倒見てやってるのに、今度は兵馬の無心かよ.....」

頼朝の心中はこんな感じだったと思います。

また、行家が何らかの功績を挙げているなら、所領を与えるということも考えられたでしょうが、墨俣川の戦いで勢力が衰微していた近江源氏と美濃源氏、尾張源氏を完全に滅亡に追いやっており、むしろ兵馬の損失を増やしてしまっていました。

頼朝は行家の申し出に対し、御所へ出頭せよという書状を送りました。
行家は自分の申し出が受け入れられたと早合点して揚々と御所に向かいましたが、頼朝の返答は

「叔父上が鎌倉武士の一人として、甥の私の力になりたいと仰せられるなら、それなりの武功を立てていただけないか」

というものでした。
これに驚いた行家でしたが

「今のわしには兵も馬もない。この状態でどうしろと言われるか」

と反論しました。
頼朝もさらに畳み掛けるように

「それは叔父上の勝手でござる。そもそも叔父上は何もないところから、近江源氏や美濃源氏、尾張源氏の勢力を次々と吸収して自分の軍勢とされた。兵も馬もないということであれば、元に戻っただけではございませぬか」

と動じることなくピシャリと言い渡しました。
行家は

「お主は、叔父であるこのわしに援助する気はないというのか」

と敵意をむき出しにした声で言い放つと

「十郎様、お控えなされませ」

と頼朝の脇に控えていた安達景長が口をはさみましたが「藤九郎、良い」と頼朝がそれを制止しました。
頼朝は威儀を正して、行家に対し、両手を床につけながら言いました。

「私は今やこの相模、武蔵、上総、下総(現在の神奈川県、東京都、千葉県)を統率する武士団の棟梁にござる。叔父上は他ならぬ源氏の縁者ではございますが、血縁だけを以て叔父上に支援することは、家人(武士)たちが納得致しませぬ。それゆえ、武功を立ててくだされと申しております。どうかこの頼朝の胸中、お察しくださりませ」

と、行家に対し頭を下げました。
頼朝の言には理が通っていました。それゆえ、行家は二の句が継げませんでした。
頼朝は言いました。

「さりながら、もし、このまま、おとなしく松田に住まわれるなら、生活の面倒は私が見させていただきます。叔父上は私の挙兵のキッカケを作って頂いた大恩あるお方。これぐらいはさせていただかないと......」

「黙れ!ワシはそなたの厄介になりにきたのではない!」

単なる食客扱いされてはさすがの行家も声をあげざるえませんでした。

「頼む、佐殿。わしに2000、いや1000騎で良い。軍勢を与えて美濃に派遣してくれ。必ずや勢力を盛り返し、東国のそなたを守る壁となろう」

「私が叔父上に弟・義円と共に2000騎をつけたのをお忘れですか?」

「うぐ......」

さすがに義円のことを持ち出されては行家も強くは出れませんでした。
頼朝は再び平伏してここぞとばかり言葉を重ねました。

「私の取り計らいがお気にめさぬとあらば、どこへでもお行きくだされ。頼朝、少しもお恨み申しませぬ。もちろん後ろから弓矢を放つようなことも致しませぬ」

とそのまま言上すると、行家はすっと立ち上がって

「佐殿。後悔されるでないぞ」

と言い捨てると御所を後にしました。

行家の足音が遠ざかると、頼朝は下げていた頭を元に戻し

「はてさて、困った叔父御よ」

と苦笑しました。

「しかし、あれで本当に良かったのですか?」

盛長が頼朝を心配して尋ねますが、頼朝は

「ああ。あれで良い。あの叔父御は自分を高く売り込むことに長けておる。あの話術があれば、大概の武士は一口乗ってみようかという野心がもたげてくるわ。ただ、弟を失ったわしにはそれが通じなんだということじゃ」

と吐き捨てるように言いました。

こうして源頼朝と源行家は叔父・甥の関係でありながら、義絶しました。
両者がこの後交わることは、生涯ありませんでした。

行家の次なる狙いは、信濃・北陸方面に勢力を張っている源義仲(木曽義仲)でした。
「目的のためなら一切の手段を選ばない」節操のない行家は、義仲と共同で平家を駆逐し、京を一時的に支配することになるのですが、それはまた後のお話です。

(つづく)
posted by さんたま at 21:23| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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