2016年11月19日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(50)-行家、平家軍と対峙する-

西暦1181年(治承五年)閏2月4日夜、一代で平家を公卿に押し上げ、太政大臣として権勢を振るい、治天の君である後白河法皇までも抑え込んだ絶対者・平清盛が享年六十四で亡くなりました。

閏2月6日、平家一門棟梁の後を継いだ平宗盛(清盛三男)後白河法皇の元に参内し、

「今は父・清盛の遺命を守り平家一門の総力を挙げて、何事も院宣の趣旨を以て政治を行うつもりです」

と申し上げました。
これは後白河法皇が政治の命令書(院宣)を下し、宗盛の責任においてその執行に当たるという、宗盛の所信表明でありました。

神妙なる宗盛の態度に法皇も安堵しましたが、それがどこまで本心のものかは正直わかりませんでした。

法皇は、宗盛を試す意味も込めて、翌7日、院庁にて公卿議定(会議)を開催し、源氏の諸勢力に対する追討中止を決定しました。法皇の側近である静賢法印が宗盛に議定の決定を伝えると、宗盛は

「追討中止などとんでもない。すでに重衡を追討使として東国に派遣することが決まっているため、追討のための院庁下文(公の命令書)を発行していただきたい」

と静賢にすごみました。しかし静賢も

「そなたは何事も院宣のままに従うと申したではないか。それでは話が違いまするぞ」

と反論しました。しかし宗盛も負けていません。

「ならば、池殿(清盛異母弟:頼盛)、門脇殿(清盛異母弟:教盛)らの平家の公卿らと相談の上、改めて主上(法皇)に申し上げます」

と静賢を退けました。
この件は最終的には宗盛の主張が法皇に受け入れられ、頼朝追討の院庁下文が下されることになります。
このように宗盛は法皇の院政に恭順の意は示したものの、生前の清盛から「畿内惣官職」に任じられていたこともあり、軍事権だけは法皇の自由にはさせなかったのです。
一種の「面従腹背」ですね。

同年4月、宗盛は予定通り、自分の弟である平重衡平知度らに頼朝追討の院庁下文に30,000騎を付けて、東国へ出陣させました。

この頃、源頼朝、武田信義、源義仲(木曽義仲)とは異なる、4つ目の源氏の勢力が、東海地方に築かれつつありました。源行家の勢力です。

源行家とは、別名・新宮十郎義盛と名乗り、かつて源頼政の命を受け、最勝親王(以仁王)の令旨を持って全国の源氏に挙兵を促した人物であり、源頼朝の叔父にあたります。また、頼朝の挙兵のキッカケになった人物です。

行家は、頼朝とは袂を分かち、平家に敗れた近江源氏や美濃源氏の残党を取り込みながら独立勢力を形成し、尾張・三河(現在の愛知県)に勢力を張っていました。

平重衡の軍勢が頼朝追討の院庁下文を携えて東国に向かっていることを知った行家は、ここで平家の一軍を撃退し、己の勢力を確たるものにして、頼朝と張り合おうと考えます。

行家は、わざわざ「自分が重衡軍を食い止める」と頼朝に申し出ますが、頼朝はこの戦いの後、行家の発言権が強まるのを警戒し、自分の異母弟である義円(乙若。義経の実兄)に2000騎を付けて援軍として送り込みました。

同年4月25日、行家は4000騎を率いて墨俣川(現在の長良川)の東岸に陣を張り、平家軍を待ち構えました。義円も行家の陣から200メートルほど北に陣を敷きます。行家軍は義円の2000騎を加えて総勢6,000騎となっていました。

程なく重衡軍も川の西岸に陣を張り、川を挟んで対峙する構えになりました。

行家は、対岸に立ち、兵力の差は歴然であることを痛感しました。ゆえにこの戦の作戦は、かつての甲斐源氏・武田信義が富士川の戦いで行ったような、夜間の奇襲攻撃しかないと考えていました。

しかし、ここで援軍として加わっていた義円が「自分が先陣を務める」と言い出してきたのです。

行家は、この戦いで並び立つ源氏諸将の勢力の中で、行家の勢力を頼朝に認めてもらおうという企みがありました。したがってここで義円に先陣を務められては、結果的に頼朝の助勢で勝てたと世間に受け取られ、自分の実力を天下に示すことにはなりません。

行家にとって、義円の先陣はあってはならないことでした。
先陣を願う義円に対し行家は

「あっぱれな仰せ。十郎(行家)感服いたしました。しかしながら、援軍とは申せ、義円殿は佐殿(頼朝)の御名代でもあられます。いわば源氏の総大将。そのような方に先陣を買って出られては私どもに立つ瀬がなくなります」

と行家が諫めました。

「叔父上、お気遣い痛み入る。さりながらここで私が先陣を努めなくては、逆に兄に対して申し訳が立たなくなってしまう」

と義円も退きません。

「義円殿、先陣は戦の勝敗を決める大事なお役目でござる。だからこそ百戦錬磨の将にしか務まりません。どうかこれ以上の問答はご無用に。」

行家はまるで甥っ子をピシャリと叱り付ける、ややキツイ口調で申し上げました。
戦の経験値を出されては、義円は行家に抗う弁舌を持ちませんので、黙り込むしかありません。

行家は自軍の北方200メートルに着陣している義円率いる2000騎を第1軍尾張源氏の源重光率いる1000騎を第2軍として、自軍の南400メートルほどに着陣させて第2軍とし、自軍3000騎を本軍と編成しました。

その上で夜半過ぎから第2軍のは川の流れに乗りながら西へ渡河。本軍は川の流れに逆らいながら西へ渡河。

渡りきったところで第2軍が鬨の声をあげると同時に本軍と共に前線の陣を奇襲攻撃。

平家軍第2陣、第3陣の反撃を受ける前に撤退し、敵を川の中におびき寄せた後、義円の第1軍が北方より攻めかかるという作戦を立てます。

ところが、行家がいざ渡河をしようとした際、第1軍の目付として派遣していた源頼康が、第1軍がもぬけの殻であることを行家に報告してきました。

「義円殿はどこに行かれたのじゃ!」

先陣ではないとはいえ、行家の立てた作戦上、第1軍は平家に追加の打撃を与える要の軍であります。第1軍がなければ、本軍と第2軍は平家の追撃をかわしながら撤退をせねばならず、それは壊滅必死な状況に他なりません。
何よりも行家の立てた作戦が全くの無駄になってしまいます。
しかも第2軍は何も知らずに渡河を始めていました。

その頃、義円率いる第1軍2000騎は勝手に墨俣川を渡河し、平家陣の北方に密かに上陸していました。
義円は、どうしても自分が先陣を飾らねば鎌倉には帰れないと自分を追い込んでいたのです。

(つづく)
posted by さんたま at 23:09| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。