ここに「平清盛VS後白河法皇」の戦いが再び勃発することになります。
しかし、清盛の方は高倉上皇が病になった段階で打つべき手は打っており、その1つが後白河院支持派である仏教武闘派勢力(園城寺、延暦寺、興福寺)の勢力の弱体化でした。
さらに清盛は、後白河院の復活が源氏を勢いづけないように、正月18日、前年10月に近江(滋賀県)を追い出し、美濃(岐阜県)に逃げ込んだ近江源氏と美濃源氏をまとめて征伐する命令を下します。
その翌日である正月19日、「高倉上皇の遺詔」として清盛嫡男・宗盛が「畿内惣官」職に任じられました。これは畿内一帯にまたがる軍事指揮権を宗盛に与えるという強力なもので、後白河法皇の院政下であっても兵馬の指揮権は平氏が掌握することに他なりませんでした。
要するに、後白河院が反平家勢力のシンボルに祭り上げらて、勝手な軍事活動ができないように、軍事権を取り上げたわけですな。
加えて清盛は、翌2月7日、京の西方にあたる丹波国(兵庫県北東部、大阪府北部)に「諸荘園惣下司職(国内の荘園の統括官)」を設置し、平盛俊(清盛側近・平盛国の嫡男)を任じました。これで平氏は、京に最も近い丹波国から自由かつ無制限に兵糧を調達できるようになり、京周辺における兵馬と食糧を完全に平家のものにしてしまったのです。
さらにダメ押しとして、越後(新潟県)の城資永(越後平氏、越後の有力武将)に命じて、信濃(長野県)で暴れている源氏勢力の1つ、木曽義仲(源義仲)を討てという命令を下します。
西国をメインの拠点とする平氏にとって、越後や北陸地方は数少ない東日本の拠点であり、それを脅かす木曽義仲は是が非でも排除しなければなりませんでした。
この時期の清盛は、正直、焦っていました。
かつてクーデター(治承三年の政変)を起こして、清盛に政権を奪われ、堀河殿に幽閉させられた後白河法皇は、平家に良い感情を持っているわけがありませんでした。それが各地の反平家勢力と結びつき、後白河院そのものが反平家勢力となることは、平家の将来のためにも、何としても阻止しなければならなかったのです。
京を含めた畿内全域の軍事指揮権の掌握と、食糧調達の準備を終えた後の清盛の次なる仕事は、征討軍を編成して一刻も早く反平家勢力を抑え込むことでした。同時に平家の威信を高め、二度と反乱を起こすような真似をさせない威圧的なものが必要でした。
ところが、ここでも清盛の計算狂いが生じました。
同年2月25日、信濃に出兵準備を進めていた、越後の城資永が卒中で急死したのです。
これは信濃の木曽義仲を牽制できる勢力がなくなったということで、逆に東国の源頼朝や武田信義と連携される可能性が大きくなりました。それは東国武士勢力がさらに強大化することに他なりませんでした。
清盛はすでに26日に五男・平重衡を鎮西(九州)に向けることを決めていましたが、資永の死を聞かされるとすぐさま方針を転換。嫡男・平宗盛、四男・知盛、重衡など平家一門の武力を結集し、東国の源頼朝・武田信義に向けて平家全軍を出撃させることを決定しました。
ところが、ここでも清盛に計算狂いが生じます。
翌27日、清盛自身が原因不明の熱病に倒れてしまうのです。
さすがの清盛もこの計算狂いには面食らったと思われます。
反平家への対策として打てるべき手は全部打ち、あとは出陣し戦果を上げるだけのはずでした。実は数日前の22日頃から体調は思わしくなかったのですが、自身の歳も考えずあれだけ精魂つぎ込んで調整に当たっていた疲れが一気に出たのではないかと思われます。
清盛は病の中、自らの死期を悟ると、翌月の閏2月4日の朝、後白河法皇に以下の申し入れを行います。
「私が死んだ後は、政務のことはすべて宗盛に申しつけてください。何事も宗盛に仰せつけられ相談し、共に手をとって政務を行ってください。それが私の最後の望みです」
しかし、これを受けた後白河法皇は
「何を気弱な。今はまだその時ではあるまい」
とやり過ごしたので、清盛は再度
「天下の事、すべて前幕下(近衛大将のこと、すなわち前右大将・宗盛)に委ねるのが最上であります。法皇様であってもこれに異論はなりません」
と再度強い申し入れを行ったと言われます。
しかし、清盛がその返答を聞くことはありませんでした。
西暦1181年(治承五年)閏2月4日夜、平清盛、自身の執事たる平盛国の屋敷で死去。享年六十四。
後白河院の復活に合わせて、寝食を忘れて反平家勢力を駆逐する体制を作り上げたにもかかわらず、その結果を見ることなく、熱病で死ぬ清盛の無念さはいかばかりであったでしょうか。
「玉葉」(右大臣九条兼実の日記)によると、同月8日、清盛の葬礼が行われましたが、法住寺(京都府京都市東山区法住寺)の中では2〜30人が今様を謡い踊っている声が聞こえていたようです。当時の法住寺は後白河院の院の御所になっていたことから、この中に後白河法皇もいたことはほぼ間違いないと言われています。
法皇にとっては、長年にわたる清盛との権力闘争の末に勝ち得た高らかな勝利の雄叫びを今様に乗せて謳っていたのかもしれません。
また、高倉上皇と清盛の死は、南都焼討を行った祟りとも言われました。
何れにしても、清盛の死を境に、平家の運命は大きく揺らいでいくことになります。
(つづく)