2016年10月16日

真田丸解体新書(10)なぜ「大坂冬の陣」は起きたのか?(中編)

1、徳川家と豊臣家の微妙なバランス関係
西暦1603年(慶長八年)2月12日は、内大臣・徳川家康は朝廷より、右大臣ならびに征夷大将軍に任ぜられました。

これは家康が「天皇の代理となって朝敵を滅ぼす権利」を得たことになり、名実ともに「武士の頂点」に立ったことを国内外に示しました。

現実問題として、関東に250万石近い直轄領を持ち、全国の諸大名に号令できるような大名は家康以外は誰もいませんからね(汗)。

家康はこの将軍宣下にもカラクリを施していました。

まず、家康は前年の西暦1602年(慶長七年)1月6日に「正二位」から「従一位」に昇叙されています。
従一位は豊臣秀吉の極官であり、関白に任じられる者と同等の位になります。

家康はここで「為政者」としての下地を作った上で、翌年の征夷大将軍に臨むのですが、それと時期を合わせて、嫡男である秀忠の官位を上げる工作を行っていました。

秀忠の官位は

西暦1601年(慶長六年)3月28日
権大納言に補任。
西暦1602年(慶長七年)1月8日 
正二位に昇叙 権大納言如元。


と成っており、さらに家康の征夷大将軍補任の2か月後

西暦1603年(慶長八年)4月16日
右近衛大将 兼任


となっております。
右近衛大将は朝廷においては武官最高の官職であり、鎌倉時代に源頼朝が平家を滅ぼした後、上洛した際に「権大納言兼右近衛大将」に任じられて以来、武家政権の権威とされてきました。

つまり秀忠がこのタイミングで右近衛大将に任じられることは、征夷大将軍である家康の後継者であることを諸大名に示したことになります。

ただし、この時点では、家康も豊臣家を主筋とするスタンスは変わりありませんでした。

西暦1601年(慶長六年)3月27日、秀頼は8歳で権大納言に任じられており、その翌日、秀忠が同じ権大納言に任じられてます。

また翌年西暦1602年(慶長七年)1月6日、秀頼は従二位から「正二位」に昇叙しており、その2日後の1月8日に秀忠が「従二位」に昇叙されていることから、ここまでの動きは、すべて豊臣家を前面に立てています。

その後、前述のとおり秀忠は「右近衛大将」に任じられておりますが、その6日後の西暦1603年(慶長八年)4月22日には、秀頼が内大臣に任じられています。これは、家康が右大臣に任じられる前の内大臣を秀頼が受け継いだことになります。

さらに家康は、同年7月、秀吉の遺言通りに、千姫(秀忠娘/家康孫)を豊臣秀頼に嫁がせています。
七歳での輿入れは当時としてもかなり早い方ですが、家康としてはとにかく豊臣家を刺激したくない考えからだと思われます。

こうして微妙なバランスの上に成り立っていた豊臣家と徳川家でしたが、西暦1605年(慶長十年)に最初の亀裂が生じることになります。


2、家康、豊臣家を公家化する
家康は、将軍宣下を受けて8か月後の西暦1603年(慶長八年)10月16日付で右大臣を辞任し、西暦1604年(慶長九年)には嫡男の秀忠に将軍職を譲ることを決め、将軍職は「武家の棟梁」である代々徳川家が世襲していくことを世に示すための方策を打っていきます。

同時に、徳川家の主筋に当たる豊臣家をどう位置づけるのかもはっきりさせていく必要に迫られていました。

家康は、朝廷に秀頼を右大臣に任じるように奏請し、秀忠を正二位に昇叙させ、秀頼の後任の内大臣に任じた上で、征夷大将軍を秀忠に譲る考えでした。
これで秀忠は征夷大将軍に任じられたとはいえ、官位においては秀頼が上という図式になります。

征夷大将軍は全国の武士の棟梁であり、軍事指揮権を持っています。秀頼の官位を秀忠より上に位置したのは、豊臣家を徳川家の権力の下に入れるのではなく、豊臣家が摂関家の一家に位置していることから、豊臣家を自らの権力の外に置き、豊臣家を公家化する目的に他なりませんでした。

西暦1605年(慶長十年)4月13日 
豊臣秀頼、右大臣に昇任。

西暦1605年(慶長十年)4月16日
源(徳川)家康、征夷大将軍辞任。
源(徳川)秀忠 従二位に昇叙。内大臣に転任。征夷大将軍宣下。


家康は全国の諸大名に上洛を求め、秀忠の征夷大将軍就任、秀頼の右大臣昇任を祝わせることを計画していました。家康は高台院(秀吉正室・北政所)を通じて豊臣家に上洛を求めましたが、秀頼生母の淀殿が

「主筋の者が臣下の者と揃って祝賀を受けるなど無礼千万。まずは秀忠殿が秀頼に挨拶に伺うのが筋」

と頑強に反対したため、病気を理由に辞退しました。
家康はここでも豊臣家を立て、六男・松平忠輝を「将軍の名代」として大坂に遣わし、豊臣家との融和に心を砕いています。

それから6年後の西暦1611年(慶長十六年)3月、後陽成天皇が譲位なされて後水尾天皇が即位されるということで、家康はそれらの儀式に出席するために上洛をしました。その際、家康は二条城での秀頼との会見を豊臣家に申し入れています。

この時の理由がなんだったのかははっきりわかりませんが、孫娘の千姫が輿入れして十年が経っており、その様子を伺いたいのと、成人した秀頼に会っておきたいという考え、もう1つは徳川家と豊臣家の間には何事もないというパフォーマンスの意味合いだと思われます。

これに対し、豊臣家の態度は「会いたければ大坂にくれば良い」という反発もありましたが、豊臣恩顧大名である加藤清正、福島政則、浅野幸長らと客将である織田長益(信長弟/有楽斎)の取り成しもあり、会見は3月28日に実現しています。

この会見により、徳川家と豊臣家との関係は一旦平穏に収まりますが、この後、秀吉子飼いの大名たち(加藤清正、浅野長政・幸長父子、池田輝政など)が次々と亡くなっていき、豊臣家を支える大名たちが激減していくと、豊臣家は「自分の身は自分で守る必要性」を感じ、諸国の浪人、兵糧、弾薬などを蓄えるようになります。

この頃、家康はまだ大坂の動きを正確につかんでいませんでした。
そんな中、大坂の陣の直接の引き金となる「方広寺鐘銘事件」が勃発するのです。

(つづく)
posted by さんたま at 17:50| Comment(0) | 真田丸解体新書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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