2016年10月03日

真田丸解体新書(10)なぜ「大坂冬の陣」は起きたのか?(前編)

久しぶりの「真田丸解体新書」の更新です。

大河ドラマ「真田丸」は放送期間が残り3か月となり、クライマックスの「大坂冬・夏の陣」に向けてまっしぐらに物語が進んでおります。

この戦いの詳細についてはドラマに譲るとして、この「真田丸解体新書」は、ドラマをもっと楽しく見るコラムでありますので、違った側面からネタ切りしようと思います。

では、今回のお題は......

「なぜ、大坂冬の陣が起きたか?」

です。


1、関ヶ原の戦いの波及効果

西暦1600年(慶長五年)9月15日、徳川家康率いる東軍と、毛利秀元(名目上の総大将名代)率いる西軍は、岐阜県関ケ原で激突し、小早川秀秋の裏切りによって東軍の圧勝となりました。

この結果、徳川家康は「豊臣家を救った功労者」としてのポジションを確立することになり、敗れた西軍を「逆賊」として貶めました。

結果、西軍は「秀頼公の名を語って謀反を働いた狼藉者」となり、首謀者である石田三成、小西行長、安国寺恵瓊が斬首。その他の西軍大名は領地没収、減封(領地を減らすこと)処分に処されました。

そこまでは戦いの勝者の権利ですので、至って普通のことだとお思いになるかもしれませんが、家康の策謀はここから始まっていくのです。

家康は、自分に味方した豊臣系大名(外様大名)には大幅な領地加増を行い、厚く報いました。
主だった外様大名をあげると

福島正則(尾張清洲24万石→安芸廣島50万石)
加藤清正(肥後半国20万石→肥後一国50万石)
細川忠興(丹波亀山12万石→豊前中津39万石)
池田輝政(三河吉田12万5000石→播磨姫路52万石)
藤堂高虎(伊予宇和島8万石→伊予今治20万石)
山内一豊(遠江掛川5万9000石→土佐浦戸9万8000石)


という感じです。
だいたい皆さん、倍近い加増ですよね。

それに対し、一方、家康の譜代武将(元々の徳川家臣)はどうかというと

井伊直政(上野館林12万石→近江佐和山15万石)
本多忠勝(上総大多喜10万石→伊勢桑名10万石)


こんな感じで直政が微増。忠勝に至っては横ばいという有様。
ケチで倹約家の家康にすれば、外様大名の加増はかなりの太っ腹になります。しかし、これには全て意味がありました。

まず1つ目は、「外様大名は、ほぼ全て大坂より西、もしくは江戸より遠いところに移されている」ということです。これは、大坂より東側、特に江戸周辺を譜代大名で固めるという家康の方針により、豊臣系の外様大名は遠国に飛ばされています。普通に転封(領地替え)だと不満が出るので、大幅な加増にしてその不満を抑えたのです。

そしてもう1つの意味は「太閤蔵入地の没収」です。
太閤蔵入地とは豊臣家の直轄領のことです。これらは豊臣系大名に預けられており、約200万石近くあったと言われています。

多くの豊臣系大名が、家康によって新しい領地に加増転封されることは、この太閤蔵入地がなくなることを意味しました。

これによって、200万石近い収入を得られていた豊臣家は、大名に預けられていた蔵入地を失い。大坂城周辺の摂津・河内・和泉合わせて65万石程度の平大名に格下げられてしまいました。これは豊臣家の諸大名にとっては大幅な計算狂いでした。現代でいえば、年収1000万の家庭が一気に300万くらいまで収入減になるようなものです。


2、巧みな朝廷工作
さらに家康は、関ヶ原の戦後処理と同時に朝廷工作を巧みも行っていました。

まず同年12月19日に、豊臣秀次切腹以来、空位となっていた関白職に五摂家(摂関家の意味で、近衛・九条・二条・一条・鷹司の五家)の1つである九条家当主・九条兼孝を補任するように奏請しています。この時、九条兼孝はすでに従一位准三宮(名誉職)の地位にあり、朝廷の第一線から退いていたのを、わざわざ当時の最高政務責任者である関白、および藤氏長者に復帰させてるので、相当な乱暴な奏請であったと思われます。

そして、これは「関白職が豊臣家世襲の官職ではない」という牽制にも等しい行為でした。
ただ、当時の秀頼は幼子に等しいため、秀吉の遺言で政務は家康が見ることになってることから、豊臣家も異議はなかったと思います。

ですが、家康にしてみれば、関白職を本来あるべき五摂家に戻したことで「関白職は公家の官職」と、自らを「武士の棟梁」としてポジショニングすることに成功したのです。この後、翌年3月、家康は大阪城西の丸を出て伏見城に入り、はっきり「為政者」として自らを位置付けます。

しかし、それはあくまでも「内大臣・徳川家康」という朝廷内の権威と、大名中最大の実力者というある種のカリスマ上に成り立っており、それは信長、秀吉と同じでした。しかし、家康が望んでいたのは、家康一代限りの支配体制ではなく、徳川氏としての公的な支配のお墨付きとその支配の永続的確立でした。

ここからは私の持論ですが、家康のこの悩みを解決するために、知恵を授けたのが関白・九条兼孝だったと考えております。

家康が望む、朝廷の序列に取り込まれず、なおかつ徳川家の武力に依拠する支配を確立させるには、朝廷の大臣職だけではなく、その武力を自由に行使できる官職が必要でした。それが朝廷内の令外官(臨時職)である「征夷大将軍」でした。この知恵を出したのが兼孝ではないかと思っています。

西暦1603年(慶長八年)2月12日、家康は征夷大将軍ならびに源氏長者の宣下を受け、右大臣に昇任しました。これにより家康に従わない勢力は逆賊となり、朝廷公認の「武士の棟梁」となりました。

そして、この家康の将軍補任は、徳川家の主筋に当たる豊臣家との間にいびつな権力構造を生み出していくことになっていくのです。

(つづく)
posted by さんたま at 20:40| Comment(0) | 真田丸解体新書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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