2016年10月02日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(47)-重衡の誤算-

西暦1180年(治承四年)12月26日、平清盛の五男・重衡と清盛の甥・通盛は、清盛の命令で4万の兵で興福寺攻めを開始しました。

対する興福寺側は、興福寺の北方にある般若寺(奈良県奈良市般若寺町)を本拠とし、ここから奈良坂(奈良から京都府木津川市に出る坂道で通称:般若寺坂)方面に堀と土塁を築き、およそ7000余りの僧兵でこれを迎撃する体制をとりました。

物見の知らせで、すでに般若寺と奈良坂の防備が完璧であることを知った重衡は、通盛を別働隊の大将にして、兵を二手に分け、木津方面に進軍し、力技で奈良坂を押し出そうとしましたが、興福寺側の反撃は鬼のように凄まじく、27日の戦いは引き分けに終わりました。

翌日28日の戦いは、興福寺側の疲労と消耗は深く、さらに数の上では4倍以上の平家軍を防ぎきれるものではありませんでした。平家方に押された興福寺側は、本拠地である般若寺を明け渡さざるを得ませんでした。
重衡らは敵の本拠である般若寺に入って、ここを自らの本陣とし、僧兵たちは興福寺に立てこもりました。

その日の夜、般若寺にて平家軍の軍議が開かれました。
通盛は昼間の戦いの勢いに乗じて、一気に興福寺焼き討ちを主張しましたが、総大将である重衡は慎重でした。

もともと重衡は興福寺攻めに反対でした。しかし父・清盛は、重衡に反平家活動の主軸の1つであった興福寺を焼き討ちにせよと命じましたが、興福寺は藤原氏の氏寺であり、その勢力は大和一国を支配するほど強大でした。

それを敵に回したくない一心で、重衡は清盛を諌め、平和的解決を図るべく使者を送りましたが、興福寺はそれを武力で応じてきたのでした。

それでも重衡は興福寺を焼き討ちにするのは避け、興福寺からの降伏の使者が来ることを願っていたのです。

軍議は紛糾し、通盛はどうしてもこの夜のうちに兵を動かしたいと言って聞きませんでした。
清盛の命令は、速やかなる興福寺の焼き討ちであったので、通盛の主張は道理であり、それに異を唱えることは総大将でもできませんでした。

なので、重衡は通盛に興福寺周辺に火をかけることを許しました。ただし、興福寺そのものに攻めかかってはならないという条件付きでした。

重衡が通盛に命じた行動は、あくまでも興福寺に対する武力牽制の意味合いでした。これを興福寺の僧兵が知れば、明朝には降伏してくるだろうという「重衡の読み」がありました。

ところが、今年の冬は雨が少なく、空気も乾燥しきっていました。そこに火が付けられ、さらにこの日は夜から風が強かったため、たちまち興福寺周辺を飲み込む大火災に発展してしまったのです。

火の勢いが尋常ではないことを知った通盛は直ちに兵に消火活動を命じましたが、手が付けられず、火の広がりは周辺1キロ四方を超え、興福寺の北方にある東大寺にまで及んでしまったのでした。

翌29日の朝、重衡は火災の状況を聞いて愕然とします。
興福寺は東金堂、三重塔、講堂、北円堂、南円堂他38の施設が焼け落ち、東大寺は金堂(大仏殿)が盧遮那仏もろとも焼け落ち僧侶、住人など数千人が焼死するという見るも凄まじい状況でした。

たとえ強風のもたらした結果とはいえ、火をかけるように命じたのは重衡であり、それが意図しない広がり方をしたことは重衡の逃れざる罪業となったのです。

重衡はこの状況を検分すると、その日中のうちに京都に戻り、清盛に戦果を報告しました。
清盛は東大寺の焼失に驚きはしたものの、念願の興福寺を焼き討ちにできたことに大いに満足でした。

年が明けて、西暦1181年(治承五年)正月、清盛は東大寺および興福寺の寺社領をすべて没収し、寺の別当(長官)と僧綱(管理責任者)らを更迭し、両寺院の再建を認めないことを発表しました。

これにより、清盛は園城寺、興福寺という後白河派二大寺院を無力化でき、さらに東大寺をも管理下に置いたことで、南都宗派の抑え込みにも成功したことになります。

ただし、ここで清盛の計算に狂いが生じます。
正月早々、高倉上皇の容体が急変したのです。

(つづく)
posted by さんたま at 21:55| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。