2016年09月11日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(45)-重衡の諫言-

西暦1180年(治承四年)12月16日、近江源氏の反乱を沈めた平知盛、重衡、清房、資盛の4人は無事京に帰還し、父・清盛に戦勝を報告しました。

清盛は源氏との戦いで初勝利を収めた息子たちを褒め称え、すごぶる上機嫌でした。
知盛、清房、資盛も終始笑顔でしたが重衡だけは笑顔一つ見せませんでした。それは重衡には清盛の密命が2つ下されていたからです。

先の近江源氏の戦いで、園城寺を包囲し戦況が膠着状態に入ったことを知った清盛は、密かに重衡を呼びました。
そしてその重衡に対し

「そなた、手勢を率いて知盛に合流し、知盛にこう伝えよ。園城寺を焼き払えと、それが父の意志じゃと」

と命じました。

重衡は清盛の五男で、正三位・蔵人頭(くろうどのとう)の地位にあり、清盛の兄弟の中でも、知盛と並ぶ武勇と教養を併せ持ち、気遣いが深く、事の是非を問うたらほぼ誤りない答えを出す貴人の気品を持つ殿上人でした。
その重衡に対し、清盛は無情にも園城寺を焼き討ちにせよと命じたのです。

父の命令ならば素直に従う重衡も

「お待ちください。父上」

と頭を低くして言上せざるえませんでした。

「園城寺の僧たちが父上に過去に2度も歯向い、特別の慈悲をもって許されたにもかかわらず、今度も近江源氏の山本兄弟と結託し、延暦寺まで巻き込んで我が平家に歯向かったことは万死に値します。それはこの重衡も厳罰を止む得ぬと考えます。されど、園城寺は全国の天台宗寺門の総本山。それを焼き討ちにするなど、言語道断の所業と存じます」

重衡必死の諫言でした。
それに対し、清盛は

「確かに僧どもに罪はあっても、寺自体を焼き払う言われ必要性もない。それは道理じゃ。」

と重衡の一言に一定の理解を示しつつも

「じゃがの、過去2度、園城寺を許した結果が、これぞ。これをどう見る、重衡?。」

この時の清盛の目は恐ろしいまでの怪しい光を放っていました。

「人をいくら許したところで、人の心は変わるものぞ。それを変えさせるのは何か?。ワシはそれがあの寺の中に巣食っていると思うのじゃ」

「父上......」
重衡は頭を下げたまま、首を横に振りました。
それを見た清盛は、重衡の襟に手をかけ、持ち上げると、重衡の目を見て言いました。

「だから、一度キレイさっぱり焼いてしまうのじゃ!」
「重衡、これは暴挙ではないぞ。これは人の手による浄化なのじゃ!」
「我が平家のため、いや、この世の安寧のためにやらねばならんことなのじゃ!」

この時の清盛の目には目一杯開かれ、瞳孔が拡散し切ってるように見える中、明らかに狂気の炎がメラメラと灯っていました。清盛の目を合わせたら、その炎に自らも飲み込まそうな感覚を覚えた重衡は咄嗟に目を背けますが、

「ワシの目を背けるでない!ワシの目を見よ!重衡ァ!!」

と無理やり目を合わしてくる清盛。
重衡は目を背けながら

「で、では......園城寺だけではなく、興福寺も焼き討ちにしろと?」

と言うと、清盛は重衡の襟元の手を離しました。
重衡の体がドスンと床に落ち、清盛は重衡を見下ろしながら

「言うに及ばずじゃ.......」

とだけ言うと、広間から出て行ってしまいました。

重衡は手勢を率いて、知盛・清房・資盛連合軍と合流し「園城寺を攻撃せよ。焼き討ちにしても構わん」と清盛も命令を伝えました。最初から「焼き討ちにしろ」とはどうしても言えなかったのです。

結果として園城寺は全焼は免れましたが、半分近くを戦火で失いました。
全焼を望んでいた清盛は、その結果に非常に不満でした。
それがわかっているだけに、重衡は勝利を素直に喜べなかったのです。

戦勝祝いの夜更け、重衡は清盛の部屋を訪ねました。
清盛は書斎にて書状を認めておりました。
重衡は清盛の背中に語りかけます。

「父上、興福寺も焼き討ちにすることはお止めください。あれは藤原氏ゆかりの氏寺。あれを焼き討ちにすることは摂関家を敵にすることに等しゅうございます......何卒......何卒」

興福寺は、南都六宗の一つ・法相宗の寺院で、藤原氏の祖である藤原鎌足の妻・鏡王女が鎌足の病気平癒を祈願して建立された「山階寺」を起源とし、西暦710年(和銅三年)平城京遷都時に鎌足の子・不比等が現在の場所(奈良県奈良市登大路町)に移設したものです。摂関家となった藤原氏嫡流(北家)の保護を受け、この時点では大和一国をほぼ支配下に置くほどの勢力を築いていました。

重衡の決死の諫言に対し、清盛は振り返りもせず、筆も止めず、

「それが、なんじゃ」

の一言で終わりました。

「父上......」

重衡は悔しさのあまり上唇を噛みしめていました。
清盛は筆も止めずに言葉を続けました。

「法王様だろうが、摂関家だろうが、院と朝廷を抑えているのは我が平家ぞ。興福寺は、園城寺と結託して我が平家に対する謀反の勢力となった。世のため人のためにこれを浄化するのじゃ。何度言えばわかるのじゃ!!」

清盛は書き手を止めて、持っていた筆を握力でへし折りました。

「仰ることはわかりますが、それは暴論にござる!!」

重衡は地に頭をつけて勢いっぱいの声を張り上げて叫びました。

「重衡......?」

重衡のこの感情の発露には父である清盛が驚きました。重衡がこのように自分の感情を爆発させることなど、これまでなかったからです。
清盛はへし折った筆を硯に置き、後ろの重衡に向き直りました。重衡は頭を上げて清盛と顔を合わせました。

「確かに我が平家は法皇様も院も朝廷も抑えております。されど、今、東国や北陸、美濃の源氏が反平家に動いているこの現状で藤原氏の氏寺である興福寺を攻撃すれば、摂関家を敵に回します。いや、摂関家だけではありません。奥州平泉さえも敵に回すのですぞ。それが得策でしょうか?」

「平泉だと?」
清盛が思いもしなかった意見が重衡の口から出ました。

奥州平泉は、陸奥と出羽の両国を実質支配している奥州藤原氏の本拠です。
代々朝廷より出羽・陸奥両国の軍事指揮権者である「押領使」に任じられ、現在の当主(御館)である秀衡は、西暦1170年(嘉応二年)に従五位下・鎮守府将軍に任じられていました。
そして当時、平安京に並ぶ国内第二位の都市でもありました。

「平泉の軍勢は10万とも20万とも言われております。興福寺を攻撃することで、藤原氏に連なる平泉が反平家となり、それが東国の頼朝と同盟を結ばれたら、京より東は全て反平家になってしまいます。今は敵を増やすのではなく、減らすことこそ得策だと重衡は存じます」

重衡は両手を地に着け

「それゆえに重ねて申し上げます。興福寺の焼き討ちは我が平家にとって得策とは思えません。何卒ご再考を」

と伏して願いました。

それをじっと見ていた清盛は

「あいわかった......今すぐの興福寺攻めは取りやめよう」

と根負けした感じでこぼしました。

「父上......」

「されど、何もせず許すわけにはいかぬ。園城寺が落とされたことは興福寺にも届いていよう。興福寺は、次は自分たちの番だとわかっているはず。であれば、こちらはわずかな兵を送り、興福寺の出方を見る。それでどうじゃ。」

「賢明な御裁断かと存じます」

「では、そのようにとりはかろう」

西暦1180年(治承四年)12月20日、平清盛は、平家の中でも屈強の武将である妹尾兼康に兵500を与えて興福寺へ向かわせました。武力による威圧ではなく、あくまでも平和的解決を目的とするため、軽武装で向かうように清盛からの厳命でした。

しかし、これが予想もしなかった結果になってしまうのです。

(つづく)
posted by さんたま at 15:07| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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