2016年08月23日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(43)-清盛、再びマジ切れする-

西暦1180年(治承四年)11月7日、福原京の平清盛は、富士川の合戦での敗戦を受けて、改めて高倉上皇源頼朝(河内源氏棟梁)武田信義(甲斐源氏棟梁)の追討の宣旨を賜ると、義理の弟(清盛正室・時子の弟)である平時忠と共に源氏への追討対策をねりました。

当時の日本国内には4つの大きな反平家の動きが起きていました。

1つ目は、源頼朝・武田信義による東国の反乱。
2つ目は、菊池隆直・阿蘇惟安・木原盛実ら肥後の武士による鎮西(九州)の反乱。
3つ目は、熊野別当職を巡った湛増、湛覚の兄弟争いに始まった湛増の反平家の行動。
4つ目は、仏教武闘派勢力・園城寺&興福寺コンビの行動

時忠は、上記4つのうち、熊野別当の件は話し合いで解決ができるレベルと判断し、鎮西の件も小規模な戦闘が断続的に起きているのみであり、今は対策を打つべきではないと考えていました。

園城寺&興福寺コンビは、延暦寺がそれに同調しない限り、表立った行動に出るほど度胸がないので放置で良いという考えであり、これは当時としては極めて冷静な分析であると考えます。


しかし、東国への扱いはそれとは全く違いました。
東国の源氏の反乱は、局地的な合戦が起きなかったとはいえ、平家本体軍が源氏に敗れた事実は非常に重く、これを機会に諸国の源氏が次々と反平家勢力として挙兵する可能性が否定できなかったからです。

また、頼朝が東国武士の力を結集して西上を開始した場合、駿河・遠江までが源氏の勢力圏であることを考慮すると、尾張(愛知県西部)あたりで予防線を張っておくべきでした。

そこで、時忠は、美濃国に勢力を張っている「美濃源氏」の存在に目をつけます。

美濃源氏は、清和源氏嫡流三代目・源頼光(彼の弟の頼信が河内源氏の祖/源頼朝や武田信義の先祖)の子で、四代目頼国六男・源国房が、父が国司(国主)を務めた美濃国(岐阜県)に土着し、勢力を張った武士団で、この当時の棟梁は美濃源氏四代目の源光長(検非違使、左衛門尉)でした。

時忠は、この美濃源氏を味方につけることを清盛に提案しました。源光長は、以仁王の挙兵の際、検非違使別当(長官)だった時忠に従って、以仁王を捕縛するのに協力していました。このため、時忠にとっては、光長は親平家の源氏という認識を持っていました。

しかし、源氏と聞いただけで虫唾が走る清盛が簡単に承諾するはずがありませんでした。時忠の提案は却下されてしまいます。

ところがです。。。

西暦1180年(治承四年)11月17日、美濃源氏・源光長が反平家の兵を挙げました。さらに3日後には、美濃源氏に呼応して、隣国の近江国(滋賀県)で近江源氏(河内源氏義光流/甲斐源氏と同系/近江源氏佐々木氏とは別系統)の山本義経と柏木義兼兄弟が挙兵。

義経・義兼兄弟は、京から伊勢国(三重県)に向かう平氏の家人・藤原景家(富士川の合戦で侍大将を務めた伊藤忠清の兄)と郎党たちの一行を襲撃し、そこで打ち取った武士の首を勢多の唐橋(滋賀県大津市瀬田)に晒しました。

勢いに乗じた義経・義兼兄弟は自前の水軍をもって琵琶湖に検問を張り、勢多川一帯を封鎖北陸方面から京に入る食糧の補給路を断つことに成功します。

琵琶湖を完全に抑えた兄弟は、さらに勢多から京方面へと進軍し、ついに園城寺に入ってしまいます。
そう、あの仏教武闘派連合・園城寺&興福寺と結びついてしまったのです。

ただでさえ燻っていた僧兵たちの士気はもうMAX状態。園城寺&興福寺は近江源氏という新たな武器を手に入れ、ついには比叡山延暦寺を脅しにかかります。

「いつまでフラフラした態度とってんだよ!オラァ!」
「俺たちのバックにゃ源氏の兵力もいるんだ。もう怖えぇもんなんかねぇんだ!」
「いい加減に腹括れや!」

こんな感じで脅されたかどうかはわかりませんが、結果として延暦寺も園城寺&興福寺&近江源氏に合力することになってしまいました。

これにブチ切れたのが福原京の清盛でした。

以仁王の挙兵時に、これまでの後白河法皇の経緯(この当時の法皇は院政を停止され、軟禁状態)から反平家の旗を立てて、以仁王側についた三大仏教寺院が、またしてもバミューダトライアングルを結成し、さらに近江源氏という新たな力まで加えて、怒涛のごとく京に攻め込もうという勢いに、

「またか......また、あいつらか!......あのクソ坊主......どこまで我らに逆らえば気がすむのか!」

と烈火のごとく怒りまくりました。

平安京が賊に脅かされているということは、瞬く間に福原京の人々にも伝わり、徐々に公卿や朝廷の面々の中から平安京への還都運動が起き始め、ついには高倉院や平家一門の中からも意見が噴出し始めた現状を、清盛は無視できなくなっていました。

源氏の反乱、坊主どもの反乱、公家たちの平安京への恋慕......こういった小さな小さな軋轢が徐々に清盛の身体を蝕み始めていました。

「もういい!わかった!そんなに京に帰りたいなら、都を京へ戻せ!!」

西暦1180年(治承四年)11月23日、ついに清盛は福原京を捨て、平安京に還都することを発令します。

但し、それは清盛が本気で仏教勢力を叩き潰す意思の表れでもあったのです。

(つづく)
posted by さんたま at 00:03| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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