2016年08月16日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(42)-金砂城の戦い-

西暦1180年(治承四年)10月20日、駿河国富士川で起きた源頼朝・武田信義連合軍VS平維盛による「富士川の合戦」は、戦わずしての平家側撤退により源氏側の勝利となりました。

敗れた平維盛は、侍大将・伊藤忠清ら50騎足らずで帰還しようとしますが、祖父・平清盛は福原への帰参を許さず、近江あたりに留め置かれました。それは戦わずして撤退した維盛に対する怒りもありましたが、実はこの頃、東国以外でも反平家活動が勃発していたのです。

同年9月、肥後(熊本県)の武士・菊池隆直は、阿蘇惟安、木原盛実らと共に九州で反平家の活動を起こしております。同月には紀伊(和歌山)熊野那智大社の権別当・湛増とその弟・湛覚の間で兄弟喧嘩が起き、平家が介入した結果、権別当・湛増に反平家の疑念を生んでいました。

そしてさらに追い討ちをかけるように、清盛の目の上のタンコブと言っていい、仏教武闘派勢力・園城寺&興福寺コンビが、ここぞとばかりに反平家の活動を活発にし始めていました。


一方、富士川の戦い後、鎌倉に凱旋し、東国武士の主として初の論功行賞を行った源頼朝は、平家本体の追討軍を戦わずして追い払った機運に乗じて、駿河・遠江(静岡県)から平家軍を追い払っている甲斐源氏の武田信義と協力し、西上して京に昇って平家を討つ考えでした。

ところが、三浦義澄、上総広常、千葉常胤ら、頼朝を主と仰いだ有力東国武士の面々頼朝の考えに賛同しませんでした。彼らは頼朝が西上しているうちに、背後の佐竹氏(常陸国<茨城>の有力武将)から鎌倉を攻められる危険があると言い出したのです。

佐竹氏とは、頼朝の5代前の河内源氏棟梁・八幡太郎(源義家)の弟、新羅三郎(源義光)の嫡男・源義業を祖とする常陸源氏の棟梁で、常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)を本拠としている有力な東国武士です。

しかし佐竹氏は、西暦1160年(平治元年)の平治の乱(頼朝の父・義朝が討たれた戦い)以後、平氏に従っていた関係上、当時の佐竹氏当主・佐竹隆義は、頼朝への協力を拒否し、反頼朝の旗印を掲げておりました。

義澄はともかく、広常や常胤らの軍勢を率いて頼朝の西上に従軍すれば、上総、下総両国が手薄になり、両氏の両国が佐竹隆義に真っ先に狙われるのは必定です。また今の頼朝にとって広常、常胤の軍勢は貴重な戦力であり、そんな危険がある中、十分な兵力を西上に割けるわけがないことは、頼朝も理解せねばなりませんでした。

ですが、どちらかというと、頼朝の都合というよりは、広常や常胤の領国を守るために「源氏の棟梁」という旗印を利用して佐竹氏の勢力を抑え込もうという両氏の策謀とも考えられます。

西暦1180年(治承四年)10月27日、頼朝は広常、常胤ら東国武士を引き連れ、佐竹氏を討つために鎌倉を出発し、11月4日、頼朝軍は常陸国府に入って作戦会議を立てました。

この時、佐竹氏当主・佐竹隆義は在京しており、本拠地を留守にしておりました。
留守を守っていたのは隆義の嫡男の佐竹義政とその弟・佐竹秀義であり、それを知った上総広常は、佐竹兄弟に対して会見を申し入れています。兄の義政は広常の誘いに応じましたが、秀義は「やることもあるのでちょっと難しい」と言って金砂城(茨城県常陸太田市上宮河内町)に入りました。

義政は広常と対面しましたが、広常が「二人だけで内密な話がしたいのだが」と矢立橋の上に誘うと、広常はそこで義政を殺害。供をしていた者たち全員が捕縛されてしまいます。

兄が広常にだまし討ちにされたことを知った秀義は、金砂城内に戦闘体制を整えて、頼朝軍を迎え撃つ準備を整えました。金砂城は天然の要害を利用した山城で攻撃がしにくく、また守るのは容易な城でした。しかし義政の死は、佐竹家中において少なからず動揺を与えました。

翌5日、頼朝は金砂城に総攻撃をかけますが、矢は山頂付近の砦には届かず、城からの落石攻撃はまともに喰らうで、城の防備は鉄壁。頼朝軍の犠牲は増える一方でした。

また鎌倉から出張っている頼朝には物資の補給も難しいため、長期戦に至れば、当主の佐竹隆義をはじめ、佐竹の縁者たちが援軍としてやってこないとも限りません。なので、頼朝軍には短期決戦の選択肢しかありませんでした。

頼朝は、上総広常を本陣に呼び出し、広常の「佐竹縁者」としてのツテで、城内から内応者を作れないかと相談しました。

広常は思案の末、秀義の叔父で、当主・隆義の弟・佐竹義季に目をつけました。それは、義季が理屈先行型で頭が切れる人間である反面、非常に強欲な性格を持っていたからです。

広常はなんとか義季に渡りをつけて

・頼朝にこれ以上反抗することは、下手すると佐竹氏の族滅につながりかねないこと
・頼朝は平家本体の追討軍を追い返し、いずれ東国の主となるべき人物であること
・頼朝に協力することは、佐竹氏の棟梁の座が兄から自分に転がりこむ可能性があること


などなど、ありったけの人参をぶら下げて義季を説得し、味方につけることに成功します。

5日深夜。義季は金砂城内から頼朝軍を城内へ手引きし、6日早朝、彼の道案内によって金砂城は弱点を突かれてあえなく落城。身内の裏切りにあった秀義は北の花園城(北茨城市/花園神社)へ無念の退却を余儀なくされてしまったのです。

頼朝は金砂城落城後、捕縛した佐竹家臣を斬首の刑に処するように命じました。その中に「岩瀬与一(岩瀬太郎)」という武勇高き武士がいることに気づき、刑場に向かう一群の足を止め、自分の近くに召しました。

「そなたほどの武士ならば潔く戦で死ぬべきものを、捕まって斬首を待つのは口惜しいことよな」

と尋ねると、与一は

「いいえ。全然。これから源氏が滅びゆく世の中の見ずに済むので、せいせいします」

と何一つ動じることなく答えると

「わしが滅びると申すのか?」

と頼朝は与一を睨みつけるように言うと、与一はせせら笑って

「はい。佐殿(頼朝)は源氏の棟梁。我が主・佐竹も佐殿と遠祖を同じとする源氏の一族。諸国の源氏が力を合わせて、平家に立ち向かねばならないときに、同族である佐竹氏を滅ぼすとはいかなるお考えでございましょうか?。このようなことを続けていれば、いずれ物の道理もわからない佐殿の御器量を訝しげ、必ず御身内から反抗する者が出てくることでしょう」

ここまで言った与一は、威儀を正して頼朝に向き直り

「源氏一族に仕えた某、そんな世の中を見たいとは思いませぬ!」

と頼朝を射抜くような目で直視し、力強い声で言上しました。
これで頼朝に従っていた武士たちは

「黙れ!下郎」
「とんでもない奴だ。引っ立ててさっさと首を刎ねよ!」


と与一を責めましたが、与一は全く臆することなく、じっと頼朝の瞳を見つめていました。
やがて与一は刑場へと引っ張られていきますが、頼朝は

「土肥次郎(実平)」

と側近の土肥実平に声をかけ

「あの者の斬首を取りやめよ」

と言いました。

「いや、しかし......佐殿を罵った男ですぞ」

「確かに罵った。見事にな。だがあの者の言うことは道理じゃ。道理に反することはやがて己に跳ね返る。わしはそうなりとうはない」

この言葉通り、岩瀬与一(太郎)は斬首を減ぜられ、鎌倉に連行されました。そして鎌倉幕府成立後に新たに制度化された「御家人」の一人として加わることになり、鎌倉市岩瀬一帯を所領として与えられることになります。また、この合戦で佐竹氏を裏切った佐竹義季も御家人に列しましたが、頼朝は主家を裏切った彼を良しと思わず、遠ざけました。

また頼朝は、花園城に追った佐竹秀義をさらに追討することを止め、ここから鎌倉に帰投していますが、奪った秀義の所領は上総広常や千葉常胤に与えられました。

佐竹氏の勢力が削減され、関東も一定の安定を見るかに思われましたが、世の中は急速に反平家へと動いていました。

(つづく)
posted by さんたま at 15:30| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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