2016年08月09日

真田丸解体新書(9)「豊臣秀次」という男(後編)

中編の続きになります。
いよいよ「秀次事件」に突入です。

1、関白豊臣秀次としての治世
西暦1591年(天正十九年)12月28日、内大臣兼任のまま関白宣下を受けた豊臣秀次は、翌西暦1592年(天正二十年)1月29日、左大臣に任じられ、2月には後陽成天皇の2回目の行幸を聚楽第で受けました。

一方の秀吉も、関白の頭ごなしに何もかも決めるようなことしておらず、ドラマ内で描かれた真田昌幸らの官位授与に関しても、秀吉は秀次の同意を求めた上で、朝廷に上奏しています。また自分の隠居所である伏見城の築城の責任者を秀次としており、「自身の後継者が秀次である」ことを諸大名に表明していました。

同年5月17日、秀次は従一位に叙任されました。
豊臣家の後継者も固まり、秀吉は後顧の憂いなく、念願の朝鮮出兵に向けて名護屋(佐賀県)で全精力を傾けている頃、同年7月から病気療養中だった大政所(秀吉の母)が死去。8月に行われた葬儀は、秀次が「豊氏長者」として実質的に取り仕切ったものでした。

そして10月か11月頃、秀吉と共に肥前にいた側室・淀殿が懐妊し、大阪に戻されました。しかし秀吉の秀次への政権継承は少し揺らぐことはなく、同年12月8日、年号が天正から文禄に改元されました。

これが秀吉から秀次への政権継承への総仕上げでした。
本来改元は、天皇の代替や天変地異などの災害発生などで、人心一新のために行われるものでしたが、この改元にはそのいずれも該当していないため、「秀吉の御世」から「秀次の御世」に関白が継承されたということを朝廷に認めさせたことに他なりませんでした。


2、変動
西暦1593年(文禄二年)8月3日、秀吉側室・淀殿が大阪で男児を出産。秀吉はその子に「拾(ひろい)」と名付け、名護屋から大阪まで飛んで帰っています。

かと言って、秀吉がこれまで行ってきた「秀次への政権継承事」を否定するような史料は「成実記」(伊達政宗の従兄弟・伊達成実が著したもの)他数えるくらいしかなく、どちらかというと、秀次への政権継承を持って豊臣政権を磐石にし、何の憂いもなく拾に渡すために何をすべきかを考え始めのではないかと思います。

同年9月4日、秀吉は伏見城に秀次を呼び「日本を5つに分け、そのうち4つを秀次が支配し、残り1つを拾に譲って欲しい」と秀次に伝えたと言われます。秀次は拾が誕生したあたりから、持病の喘息が再発し、この後、熱海へ湯治に向かっています。

一方で、秀吉は、拾の身代をいかにして立ててやるかに心を砕くあまり、秀次のいない間に次々と自分勝手な未来の構想を立て始めました。その1つが、「拾と秀次の娘との婚儀」です。

秀吉は、現在の天下人である秀次を否定する行為は、秀吉の治政そのものを否定することになり、公私を混同するものであることは理解していたと考えられます。であるならば、秀次から拾への政権継承をどのような正当性を持って打ち出せるかを考えた場合、生まれて一歳になる秀次の娘に目をつけ、婚儀によって秀次から拾への政権継承の大義名分にしようと考えたと思われます。

この考えは、当時としては別段間違った考えではありません。

ですが、ここでまずかったのは、秀吉の右筆(秘書官)である木下吉隆が、秀次の右筆である駒井重勝に「関白殿下が湯治から戻ったら、そう伝えられる」とコッソリ教えたことでした。このことは、駒井を通じて熱海で湯治中の秀次の耳にも入ってしまいます。

秀次としては、太閤としての方針に異を唱えるつもりは毛頭ありませんでしたが、拾が生まれてからの秀吉の成され方に、ある種の強引さと恐れを感じ始めた可能性は否定できないでしょう。

ですが、秀吉と秀次の間に不穏な空気やら仲が悪いと言った雰囲気は史料を読み解いてもあまり見当たらず、この段階では、秀吉のあくまでも秀次の次の後継者に拾を置きたいという野心と、秀次の自分が用済みになるのではないかという猜疑心が相克関係にあったのみで、表立っての険悪な関係はなかったと考えられます。

一方で、秀次は朝鮮出兵において、太閤の名代として朝鮮へ渡航するのを嫌がっており、黒田如水(官兵衛)からも「そんなことでは人心を離反させるだけ」と呆れられていたとも伝えられています。これは秀次自身が秀吉の外征政策に反対の意見を持っていたのではないかと言われています。


3、秀次事件
西暦1595年(文禄4年)6月末、突然、秀次に謀反の疑いが持ち上がりました。容疑は「鷹狩りを理由に、山の谷間や峰の上、林の中などで、秀吉に対して謀反の打ち合わせをしていた」というものでした。

秀吉と秀次の間が露骨な険悪関係になっていたならともかく、秀次が秀吉に対して謀反したところでどこに利益があるのかサッパリわかりません。

しかし、謀反の噂と聞いては秀吉も捨ててはおけず、7月3日、聚楽第に石田三成・前田玄以・増田長盛ら五奉行の面々を派遣して秀次を詰問し、誓紙提出を要求しました。秀次は謀反の疑い即座に否定し、神前起請文として7枚継ぎの誓紙にて、秀吉への忠誠を示しました。

この件はこれで収束すると思われましたが、一方で、7月5日、石田三成の元に毛利輝元(安芸廣島城主/従三位・権中納言)から「昨年、関白殿下の家臣・白江成定がやってきて誓紙及び連判状を取り交わした」という報告が上がり、三成はこれを秀吉に報告しました。

これを聞いた秀吉は
「我ら親子の間はよくこう言う話が持ち上がる。だが、だいたいは顔と顔を突き合わせて直に話せば消えるものよ」と一笑に付したと言われます。秀次にとってもこれも事実無根であるがゆえに、特に弁明もしませんでした。

ところが、3日後の7月8日、事態は急変します。

前田玄以・宮部継潤・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊の5名が秀吉の使者として聚楽第に訪れ、秀次に伏見に出頭するように促しました。秀次は使者の用向きを理解し、その意に応じて伏見への出頭を了承しました。

その日のうちに秀次は伏見に移動しましたが、秀吉は拝謁はおろか登城も許さず、自身の右筆である木下吉隆の屋敷に入るように命じました。そして秀次はほどなく「高野山へ登れ」という秀吉の命令を受け、すぐに出家僧体の身になって高野山へ向かって移動を開始、同月10日、高野山青厳寺に入りました。
また、この段階で秀次の側室や子女はすでに捕縛されています。

秀次が高野山に追放されたことを知った秀次の家臣たち(白江成定、木村重滋ら)はあらゆるルートを使って秀吉にコンタクトを試み、秀次の謀反の弁明を行いましたが、秀吉はこれを一切介さず、秀次を弁明した者には次々と切腹の命令を出していました。

秀次自身にはそのまま何の沙汰もありませんでしたが、同月15日、高野山の秀次の元に福島正則(伊予今治城主/従五位下左衛門大夫)らの検使が兵を率いて現れ、秀次に「賜死」の命令が下ったことを伝えました。これに対し、秀吉から秀次監視を命じられた木食応其(青厳寺住職)は、仏教寺院内の罪人保護の権利を主張し異議を唱えましたが、秀次が切腹命令を受け入れたため、大きな騒動には至らず、同日夕刻までに切腹して果てました。


4、秀次事件の要因
この事件に関しては様々な俗説があり、未だ定説を見ません。ですが、よく言われていた秀次の悪逆非道、乱暴狼藉、好色奔放などは現在ではほぼ否定されています。

よく言われるのが「拾(ひろい)誕生による秀吉の変心」ですが、前述の通り、秀次への継承をほぼ終えた段階でこの事件をわざわざでっち上げるのは、秀吉のこれまでの行動を全否定するものであります。

ましてや関白は天皇の臣であるため、天皇の許可を得ず天皇の臣下を独断で討つのは、自分が培ってきた政権基盤を自分で揺るがすようなものです。

天皇の臣下を独断で討つには客観的な大義名分が要りますが、それを前述の「謀反」に求めるのも理解しがたいです。そもそも関白の職にある秀次が「謀反」を起こしたところで、どんな利があるでしょうか。秀次が関白で足り得ているのは太閤の後見があればこそなのは秀次自身がよくわかってる話です。

万が一、本当に「謀反」であるならば、処せられる刑は「切腹」ではなく「磔」か「斬首」ではないかと思うのです。それゆえ、本件は前述の「謀反」によって処せられたものではなく、それとは別の何かによって処刑されたのだと自分は考えています。

私が着目したのは、秀次が諸大名に金銭を貸していた事実です。

前述の毛利輝元の訴え(白江成定が誓紙を取りに来た)が事実かどうかはともかく、秀次が多額の金銭を毛利輝元に貸していたことは間違いなく、これは細川忠興(丹後宮津城主/従四位下 侍従・左近衛少将)も同じでした。

これが秀次の個人資産(近江、尾張、北伊勢およそ100万石)からの持ち出しならば、問題はなかったのかもしれません。しかし秀次はこれを公金(朝廷の資産)から拠出していたのではないかと考えました。しかも毛利や細川以外にも多数の大名家に金を貸し付けていたことが発覚し、その金額は結構大きかったのではないかと思われます。

百姓身分から天下人に登った秀吉は、朝廷から新たに賜った「豊臣氏」の家格向上に必至で、それによって豊臣家の支配を磐石にしたかったと考えています。その最中、いかに関白とはいえ、朝廷の公金に手をつけることは「あってはならないこと」だったはずです。

毛利輝元から石田三成に訴えがあったのが7月5日。最初は全く意に介さなかった秀吉でしたが、3日後の8日には豹変して家臣を詰問にやっています。この3日間の間に借金の事実とその金の出元が判明したのではないでしょうか。

そしてこの段階で秀吉はこの事実(公金横領)の事実を公表することはできなかったでしょう。だから「謀反」をでっち上げざる得なかったのではないかと考えています。

もちろん謀反など事実無根ですから、ほとんどの秀次家臣が釈明をしますが、秀吉は彼らを全て切腹に追い込んでいます。秀次に仕えるまでは、自分の直臣だった武将達ですから、秀吉にとっても断腸の想いだったでしょう。

この一件で、秀次の縁者や秀次に親しい関係のある者は全て「謀反の一味」という嫌疑をかけられています。その中には伊達政宗(陸奥岩出山城主/従五位下 侍従・越前守)浅野長政(若狭小浜城主/従五位下 弾正少弼)最上義光(出羽山形城主/従四位下 侍従)など有力大名の多くや山内一豊(遠江掛川城主/正五位下 対馬守)など元家老がいましたが、切腹や死罪になったのは秀次の家老や家臣のみで、取り調べの結果、関係が薄いと思われた者たちは許されています。

これも公金横領の事実を知らなかった者が許されていると考えています。

秀吉はこの事実を徹底的に闇に葬るために、秀次の妻及びその子供達から侍女を含めた39人を惨殺しています。それは狂気の沙汰とも言える振る舞いでした。

そしてその中には秀次側室に決まったものの、まだ屋敷にすら入ったことのなかった最上義光の娘・駒姫(当時十五歳)も死罪になり、義光が秀吉から離心していく要因になっていきます。


5、豊臣家の終焉
秀次事件で一族皆殺しにしてしまったため、秀吉の治政の後を継ぐのは、生まれたばかりの秀吉の子である「拾」しかいませんでした。

秀吉は秀次切腹の前後に諸大名に向けて「拾に忠節を尽くすこと」という誓紙を取っていますが、秀吉がやったことは、拾が成人した後、拾を支える血族を喪失させたことになり、これが後々の豊臣家の弱体化につながっていきます。

秀吉は自らの手で豊臣家の終焉を早めてしまったと言えるかもしれません。

(このシリーズ終わり)
posted by さんたま at 20:20| Comment(0) | 真田丸解体新書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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