2016年07月31日

真田丸解体新書(9)「豊臣秀次」という男(中編)

前編の続きになります。
ここからは「羽柴秀次」が「関白・豊臣秀次」になるまでを描いていきます。


1、近江・美濃43万石の大名へ
西暦1585年(天正十三年)8月、秀次は、四国征伐の論功行賞により、近江国内の蒲生・坂田・野洲・浅井・甲賀の5郡20万石の加増を受け、また秀吉より秀次の宿老として付けられた田中吉政、中村一氏、山内一豊、堀尾吉晴、一柳直末の所領23万石を加えた、合計43万石の大名へと出世しました。この時、秀次十七歳。秀次は秀吉の命令で近江国蒲生郡(滋賀県近江八幡市宮内町)に自らの居城・近江八幡山城を築城しています。

秀吉は秀次の宿老筆頭に、秀次が宮部家養子時代の家臣だった田中吉政を置いて、八幡山城内の執政一切を取り仕切るように命じ、残りの四宿老を領内の要所に配しました。

佐和山城主(滋賀県彦根市古沢町):堀尾吉晴
水口岡山城主(滋賀県甲賀市水口町):中村一氏
長浜城主(滋賀県長浜市公園町):山内一豊
美濃大垣城主(岐阜県大垣市郭町):一柳直末

堀尾、中村、山内の三氏は秀吉の古参武将、一柳は秀吉の黄母衣衆の一人です。
いかに秀吉が秀次に目をかけていたかがよくわかる計らいだと思います。
秀次は執政の田中吉政の助言をよく聞き、若いながらも領内の統治では善政を敷いたと伝わっています。


2、豊臣家のNo.3へ
西暦1585年(天正十三年)10月頃、秀次は従四位下・右近衛権少将に叙任され、翌西暦1586年(天正十四年)春、右近衛権中将に昇任。同年9月に秀吉が朝廷から「豊臣」の姓を賜ったことから、11月25日、秀次も豊臣姓を秀吉から下賜され、参議に補任。とんとん拍子に出世していきます。

西暦1587年(天正十五年)九州征伐にて京都留守居役を務め、11月22日に従三位に叙任。権中納言に任官。

西暦1588年(天正十六年)4月14日、聚楽第に後陽成天皇の行幸を迎えて、天皇に忠誠を誓う署判の序列では、秀次は、徳川家康(権大納言)、織田信雄(内大臣)、豊臣秀長(権大納言)についで四番目になっており、この時、名実ともに豊臣家のNo.3に位置していました。
その5日後の4月19日、秀次は従二位に昇叙しています。


3、豊臣家の後継者へ
西暦1590年(天正十八年)、秀吉に嫡男の鶴松が誕生。そして北条氏の惣無事令違反により、小田原征伐が開始。しかし秀長が病気であったために秀次が副将とされ、徳川家康の後見を受けることになります。秀次は山中城(静岡県三島市山中新田)を攻め、見事に落城させ、小田原城包囲戦でも荻窪口を守りきりました。

この戦功により、秀次は尾張ならびに伊勢北部5郡を加増され、近江・美濃の旧領と合わせて合計100万石の大大名となりました。

一方で、西暦1591年(天正十九年)1月22日、病気療養中であった大和大納言・豊臣秀長が死去。これにより、秀次は秀長が務めていた豊臣家の最高執行責任者(COO/No.2)の重責を担うことになります。秀長死去の翌月2月11日、秀次は正二位に叙任したことがその表れだと私は解釈しています

同年3月13日、陸奥国南部信直の家臣・九戸政実が謀反を起こすと、秀吉は秀次に奥州の諸将を率いて「総大将」として乱の鎮圧を命じます。秀次が総大将となったのは、小牧・長久手の戦い以来のことでした。秀次は、徳川家康、浅野長政、蒲生氏郷、伊達政宗ら6万の軍勢を率いて、九戸城を取り囲み、同年9月4日、見事、乱を鎮圧させました。

ところが、この乱の最中の8月5日、秀吉の嫡男・鶴松が死んでしまいます。

同年11月28日、秀次は権大納言に任官。これは秀長と鶴松の死去によって、豊臣家の権威が下がることを恐れた秀吉が取り計らった措置であり、これを以て、秀次が豊臣家のCOOとしてだけでなく、天下人である秀吉の後継者としてのポジションに位置付けられたと私は考えています。

秀次は、権大納言任官の6日後の12月4日、内大臣に転任しているのですが、これもその表れかと。

幾つかの史料によれば、12月20日付で秀吉は秀次に対し、5ヶ条の戒めを送っています。
現代文風に意訳すれば以下のとおりです。

一、武士たるもの、鎧、刀などの武備の心がけに努めなければならない。
一、政治は常に公平でなくてはならない、自分の仲良しだけを周りに置くな。
一、天皇に対し常に奉仕し、また諸大名や家臣に目をかけるのを忘れるな。
一、女性に惑わされるな、また遊びに興じるな。

ここまでは一般的な「おやくそく」ですが、最後の五条目で

「茶道や鷹狩り、女人への扱い方など、ワシの真似をするでない。ただし、茶道は世の慰みごとだから、人を招いて時々茶会を開くなどは構わん。鷹を適度にかわいがるもよし、女も五人でも十人でも屋敷内に囲おうともお前の好きにしろ。ただし、ワシのように家の外に女を囲ったり、鷹狩りや、大々的な茶の湯など、ワシの真似をして極められんなら、するでない」

と苦言を呈しています。これを「秀吉の訓戒」とするのが定説ですが、私は「やるなら達人になれ、ワシのように中途半端をするな」という意味に捉え「そうしないと恥を掻くぞ、精進しろ」という意味ではないかと思っています。

というのも、豊臣氏は朝廷から賜った新しい「氏」であるものの、所詮は新設であり、秀吉は豊臣氏の家格向上に努めていました。秀吉は直参家臣はもとより諸大名にも豊臣の姓を与えていますが、これはその表れだと思います。

秀吉は秀次を後継者として認めたからこそ「自分のような真似はするな」つまり「高貴たれ」と秀次に要求したのではないでしょうか。


4、関白宣下
西暦1591年(天正十九年)12月28日、秀次は関白宣下を受け、関白に就任。同時に豊氏長者(豊臣氏の筆頭)にも就きました。これで名目上、秀次は豊臣家の最高経営責任者(CEO)に就いたわけですが、天下人としての立場は、関白を辞して「太閤」となった秀吉にありました。

秀吉の思惑は、自分が存命のうちに、秀次を一人前の天下人として鍛えることであり、そのために「為政者としてのルール(今でいう帝王学?)」を厳しく教え込まれていました。それが秀次のためであり、豊臣家のためであると信じていたからです。

(つづく)
posted by さんたま at 12:47| Comment(0) | 真田丸解体新書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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