2016年07月30日

真田丸解体新書(9)「豊臣秀次」という男(前編)

今月の「真田丸」では、時の関白・豊臣秀次が切腹して果て、その一族が全員殺害された、いわゆる「秀次事件」が取り上げられました。

もちろん、脚本家三谷幸喜の独特の歴史観・人物観と解釈によって構成されたフィクションではありますが、一見の価値があるように思いました。

この豊臣秀次という人物は、戦国期の大河ドラマでは必ずと言って良いほど登場し、そして貧弱、無能、好色などのイメージで形作られてきた、非常に可哀想な人物観を持たれておりますが、現在までに分かっている秀次像は決してそうとは言えない部分を持っています。

よって、今回は「豊臣秀次」にテーマに前後編でどういう人物だったのかを描いてみたいと思います。

1、豊臣秀次の歴史上の初見
豊臣秀次とは、西暦1568年(永禄十一年)豊臣秀吉の姉・「とも」と、その夫である「弥助」との間の長男として尾張国知多郡大高村(愛知県名古屋市緑区)で生まれました。名前は「治兵衛」。この時は百姓の子として生まれております。

西暦1572年(元亀三年)10月、この頃の秀吉は織田信長の命令で近江浅井氏(信長の義弟・浅井長政)の小谷城を攻めるため、近江国の国人を味方につけるべく動いていました。

その国人の一人、宮部城(滋賀県長浜市宮部町)の城主・宮部継潤を味方につけた際、継潤の身代の安全を保障するための人質となったのが、秀吉の甥である治兵衛でした。

治兵衛は、宮部継潤の養子とされ、通称を宮部次兵衛尉、諱を吉継と改め、「宮部吉継」となります。
しかし養子はあくまでも名目上のことでしたので、近江浅井氏が滅んだ西暦1573年(天正元年)9月以降は、宮部家との養子縁組を解消されていました。


2、三好家へ再度養子に。
当時、足利将軍家(室町幕府)を意のままに操っていた三好三人衆の一族で、阿波国(徳島県)に独自の勢力を持っていた三好康長という武将がいました。西暦1580年(天正八年)、織田家の同盟者で土佐(高知県)の長宗我部氏が阿波に侵攻すると、康長は秀吉に接近してその支援を得て、「四国は長宗我部の切り取り次第」という従来の織田家の外交方針を巧みに変更させました。

この時、康長は秀吉の力を相当当てにしていたようで、秀吉の甥である吉継(秀次)を自身の養子にし、連携を確固たるものにしました。これ以後、吉継は、通称を「孫七郎」諱を「信吉」と改め、「三好信吉」と名乗ります。

西暦1582年(天正十年)9月、康長は織田家の後継者としての地位についた秀吉に従い、根来・紀州攻めに従軍しますが、この後、三好家当主としての活動記録はなくなっているため、翌年西暦1583年(天正十一年)には家督が信吉に譲られたと解釈しています。この頃、河内国北山(大阪府東大阪市)2万石の大名となっているようですが、信吉はまだ十五歳でした。


3、三好から羽柴へ
西暦1583年(天正十一年)、織田家関東方面軍司令長官・滝川一益が越前北ノ庄の柴田勝家(北陸方面軍司令長官)に呼応して挙兵すると、信吉は秀吉の命令により、中村一氏(秀吉の旗本)らと共に2万を率いる大将として出陣して、滝川一族の滝川益重が守る峯城を落城させました。

この後、秀吉は本戦である「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を破って、織田家の家中統一を成し遂げ、天下人の地位を確立させました。そうなると、信吉は秀吉の数少ない血縁者であり、秀吉が培った地盤を担っていく「次なる世代の筆頭」としてその存在を際立たせることになります。
ですが、信吉は庶家とはいえ三好家の家督継承者であるため、羽柴家を担うことはできず、それが秀吉の頭痛の種でした。

西暦1584年(天正十二年)、秀吉は独断で三好家との養子縁組を解消させ、信吉を秀吉の本姓である羽柴姓に復帰させ「羽柴 信吉」(通称は変わらず孫七郎)と名乗りを改めさせました。この時期、秀吉がほぼ畿内を制圧したため、三好の勢力は四国にわずかしかなく、三好氏と養子縁組をしてまで連携をとる意味合いが少なくなったことが理由と思われます。


4、「小牧・長久手の戦い」での失態
西暦1584年(天正十二年)3月、織田信雄・徳川家康連合軍は秀吉と合戦に及びました(「小牧・長久手の合戦」)。この合戦の最中の4月4日、池田恒興(信長の乳兄弟)森長可(蘭丸の兄/恒興の娘婿)が、本体とは切り離された別働隊として、家康の背後に回り、三河に攻め入って補給路を断つという作戦を秀吉に提案し、信吉はこの別働隊の総大将となりました。

しかし、この動きは近隣の農民から得た情報によって家康に見破られていました。
別働隊の本隊が第四軍の羽柴信吉ということまで把握していた家康は、4月9日、白山林(名古屋市守山区)で休息を取っていた信吉の本隊のみの一点集中で、水野忠重、丹羽氏次、榊原康政、大須賀康高らに奇襲攻撃を命令しました。迎撃体制の整わなかった信吉の第四軍は、徳川家の猛者の猛攻に瞬く間に壊滅してしまったのです。

この戦いは、第一軍を率いていた池田恒興、並びに嫡男の池田元助、第二軍の森長可がなどが戦死しており、秀吉は信長古参時代からの友を失ったこともあって、生き残った信吉への叱責は生半可なものではありませんでした。というのも、この別働隊の総大将は恒興、長可の両将から信吉が請われ、信吉が自分から「総大将にさせてくれ」と秀吉に頼んだものという事情もありました。

秀吉は生き残った信吉に対し「自分の家臣を見殺しにした大馬鹿者」と罵り、「ワシの甥としての覚悟と分別を持つのであれば望み通りどの国でも任せてやろう。だが、今のお前のような(自ら大将になりたいだの)自分勝手な振る舞いをこれからも続けるならば、羽柴一族の恥さらしとしてワシがお前を討つ」と激昂しています。これよりしばらくの間、信吉は冷遇され続けることになります。


5、汚名挽回
翌西暦1585年(天正十三年)2月、秀吉は紀州征伐(第二次)に出陣し、信吉は秀吉弟・秀長と共に副将を任されました。これは秀長による推挙によるものではないかと考えています。

3月21日、千石堀城(大阪府貝塚市橋本)の戦いで、主将としての軍の指揮をとった信吉は、四方から絶え間なく攻撃を仕掛け、多大な犠牲を出しながらも城の脆弱な部分を探し出し、そこに筒井定次率いる伊賀衆の隠密攻撃が大打撃となって見事に城を落城させました。この時、信吉は人はおろか動物に至るまで皆殺しを行っています。

同年6月に始まった四国征伐において、信吉は3万を率いて出陣し、黒田孝高(官兵衛)、宇喜多秀家らと合流した後に、阿波岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)を攻めて落城させています。

紀州征伐、四国征伐で軍功を挙げた信吉は、小牧・長久手の戦いでの失点を完全に取り戻し、再び、羽柴家の後継者としてのポジションを固めつつありました。そして同年7月、秀吉より偏諱を受けて「秀次」と改名し、「羽柴 秀次」と名乗ることになるのです。

(つづく)


posted by さんたま at 20:11| Comment(0) | 真田丸解体新書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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