2016年07月18日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(41)-源氏、東国に拠点を築く-

西暦1180年(治承4年)8月21日 富士川の戦いの後、賀島(静岡県富士市)から黄瀬川(静岡県沼津市)付近に陣を戻した源頼朝の元に、奥州から「源九郎」なるものが頼朝に面会を求めてるという話を土肥実平が持ってきました。

実平によれば、この者はかつて全成(頼朝の異母弟であり、義経の実兄)が話をしていた「牛若」である可能性が高いといい、それを聞いた頼朝はすぐに連れてくるように命じます。

実平は広間の外に聞こえるように「小四郎殿(義時)!、お連れいたせ!」と声高に叫ぶと、佐々木定綱、北条義時に連れられて、義経がやってきました。
頼朝の居室に入ると、定綱、義時はサッと両脇に控えてそこに座り

「さ、佐殿(頼朝)のお近くへ参られませ」

と義経に頼朝の面前に行くように促しました。
義経は生唾を飲み込むと、一歩一歩ゆっくりと頼朝の面前に近づいていくと

「九郎殿(義経)」

と実平が声をかけたので、その場で座り、頼朝に深々と頭を下げました。

「源九郎にございます。兄上様の挙兵を遠い奥州にて聞き、いてもたってもいられず、罷り越した次第にございまする」

と顔を伏したまま言上した義経に対し、頼朝は「面を上げよ」と命じ、義経は顔上げ、兄弟はまじまじと顔を合わせました。

「そなたが牛若か。全成より話は聞いておる」

「全成.....殿ですか.......?」

義経はキョトンとした顔をすると、実平が「はっはっは」と笑うと

「九郎殿の兄君にござる。そなたはまだ赤子故に覚えてはおられまい。知らぬは当然でござる」

と言葉を続けました。それを聞いていた頼朝も

「ああ、そうであったの。すまんすまん。」
と全成の名前を出したことを後悔するように詫びました。

「この頼朝、そちの合力を嬉しく思うぞ。このことは平泉の御館(奥州藤原氏当主 鎮守府将軍・藤原秀衡)も承知の上のことか?」

「いえ、御館は私の出兵に反対されました。私は己の独断で馳せ参じた次第でございます」

「それではこれまでそなたを養育してくれた御館の恩を仇で返したことになりはしないか?」

「ご心配には及びません。確かに私は平泉を出奔しましたが、御館は兵を与えられぬ代わりに直臣を二人、私につけてくれました。これが御館の私への餞であると思うております」

「なるほど。それがそなたの郎党か。」

「はい。兄上のご命令とあれば、一騎当千の働きをする者どもでござりまする」

義経はそう言いながらまた頭を下げました。
頼朝はなんども頷きながら、座を立って立ち上がると義経の側まで自ら歩み寄り、地につけている義経の手を取って、こう言いました。

「今から100年以上前の話じゃ。我らの先祖に新羅三郎殿(義光)と呼ばれる方がおられてな。この方の兄である八幡太郎殿(義家)が奥州の戦いで苦戦され、京の都に増援を求められたことがあった。しかし都の公家たちはその戦いを私闘(お家騒動)と見做し、八幡太郎殿の増援願いを却下された。」

義経は黙って頷きました。

「その時、新羅三郎殿は都で勤めていた官職を捨て、自分の郎党を引き連れて単身、兄の求めに応じて、八幡太郎殿のいる奥州に駆けつけたのじゃ」

そう言いながら、頼朝は義経の手を握りしめました。

「今、ここにそなたが我が陣に駆けつけてくれたということは、我らが先祖・新羅三郎殿のお導きに相違あるまい!」

「いかにも!」
舅である時政が真っ先にそれに応じました。

「嬉しゅうございまする」
義経はそう言ってまた頭を下げました。

「今はまだ陣中ゆえ何も構いができぬが、我らは明日以降、鎌倉に向けて出立する。そちは我らに同行し共に鎌倉に入れ」

「ありがたきお言葉、忝なく存じまする」

義経は再び手を地に着けて、深々と御礼を申し上げると

「今日は疲れたであろう。下がって休め。」

と頼朝は義経を労わりました。

「小四郎!」
「はっ、ここに」
頼朝の居室の脇に控えていた義時が、頼朝に向き直って一礼しました。

「その方、九郎を陣屋に案内いたせ」

「はっ、承知いたしました。」

義時はまた一礼して

「では九郎殿、こちらに」

と義経を促して退出しました。
義経は改めて頼朝に一礼して座を立っていきました。

「なかなかに頼もしそうな若者にございますな」

時政も満足げに言うと

「舅殿(時政)も知っての通り、ワシは20年前の平治の戦(平治の乱)で多くの兄弟を亡くしました。だからかのう、同じ源氏の一門の参陣はなんとも嬉しく思いましてな」

「九郎殿が我らに参陣したことを諸国に眠っていた源氏が聞けば、次々と佐殿の元に集結するかもしれませぬ。それは後々平氏に対する大きな力になりまする」

「そうあってほしいものじゃ......」

頼朝は満足に頷き、これからの自分の未来に思いを馳せました。

翌朝22日、頼朝は黄瀬川を陣払いし、一路鎌倉に向かいました。その途中、相模国の国府(現在に至るまで場所不明)にて、挙兵後初の論功行賞(賞罰)を行いました。

山木邸襲撃の頃より付き従った、北条時政・義時、岡崎義実、土肥実平、佐々木定綱・経高・盛綱ら佐々木兄弟、加藤光員・景廉、天野遠景らはそれぞれ本領を安堵され、また頼朝再起の力となった上総広常、千葉常胤、三浦義澄、和田義盛、安西景益らも従来通りの領土を安堵しました。

また、このタイミングで佐々木兄弟の義理の祖父である渋谷重国が頼朝に臣従しました。

渋谷重国は、かつて平治の乱(西暦1160年)で敗れて東国に落ち延びようとしてた佐々木秀義(佐々木兄弟の父)を匿った、佐々木兄弟にとっては大恩人でした。

頼朝の挙兵に従った秀義や定綱らは、重国にも自分たちに同心するように伝えますが、重国は平氏の受けた恩を忘れるわけにはいかない大庭景親に従いました。

但し従軍はしても積極的に戦闘には参加していないようで、石橋山の合戦の後、景親から「佐々木兄弟の妻子を捕らえろ」という命令を「お前に言われる筋合いはない」と一喝して拒否したと言われます。

石橋山の合戦で敗れて逃げていた佐々木兄弟は、その途中で京を出奔していた全成と出会い、その全成の身を保護したのも重国でありました。故に重国は全成の命の恩人でもありました。

重国は全成を下野国にて頼朝に対面させるように取りはからった後、孫(佐々木兄弟の異母弟)に当たる佐々木義清を佐々木兄弟の末弟・盛綱の与力として遣わし、自身は鎌倉にて謹慎をしておりました。

重国は石橋山の戦いで大庭景親に味方した平家方の武将ですが、全成の命を助けたこと、また、石橋山の合戦で頼朝の命を救うキッカケとなった飯田家清が重国の息子であったことから、頼朝はその命を助け、重国並びに孫である佐々木義清を自分の麾下に加えたのです。

一方で、相模国の平家方武将の大将であった大庭景親は、すでに捕縛されて上総広常に。そして伊豆国の平家方武将の大将であった伊東祐親も捕らえられて三浦義澄にそれぞれ預けおかれました。

大庭景親の兄である大庭景義は早くから頼朝に仕えており、石橋山の合戦の際に弟とは絶縁しておりました。頼朝が景親は広常に預けたのは、景義に弟を助命する考えがあれば、それを聞き入れようという考えがありました。

しかし景義は
「私は石橋山の戦いの時、三郎(景親)とは縁を切り申した。佐殿の存分になされませ」
とのことでしたので、数日後、相模国固瀬川(神奈川県藤沢市片瀬)で処刑され、晒し首にされました。

一方、伊東祐親とは、頼朝が政子と結婚する前、祐親の娘と恋仲になり男児を儲けたのですが、祐親は平家の目につくことを恐れその男児を殺してしまうという因縁がありました。また舅・北条時政にとっては亡き嫡男・宗時の仇でありました。

頼朝は世情が収まったらいずれ処刑しようと思い、前述の通り三浦義澄に預けましたが、義澄は祐親の娘を嫁にしていたため、なんとかして祐親の命を助けようと試みることになりますが、それはもう暫く後の話です。

これらの仕置により、上総、下総、武蔵、相模、伊豆(千葉県、東京都、埼玉県、神奈川県、静岡県の一部)から平家方の勢力がほぼ駆逐されました。

その結果、前述の渋谷重国だけでなく、かつて敵だった畠山重忠、河越重頼、江戸重長などを含めた秩父平氏が皆、頼朝の麾下に加わり、さらには石橋山の戦いで頼朝の命を実質的に救った梶原景時も頼朝に仕えることになります。

ここに源氏は、頼朝の上記5か国と、甲斐源氏棟梁・武田信義の信濃、甲斐、駿河、遠江の4か国合わせて、東国9か国を基盤とすることに成功しました。のちに初の東国政権である鎌倉幕府の最初の拠点がここにできたのです。

(つづく)
posted by さんたま at 15:03| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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