2016年07月12日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(40)- 源九郎義経-

西暦1180年(治承四年)10月20日深夜、源頼朝・武田信義連合軍と平家の源氏追討軍(総大将・平維盛)は、駿河国富士川で対峙しましたが、平家軍が勝手に混乱して撤退した為、戦闘らしい戦闘は起きませんでした。

平維盛は駿河国の西隣になる遠江国(静岡県西部)に撤退したため、翌21日、甲斐源氏棟梁・武田信義は、河内源氏棟梁(源氏嫡流)の源頼朝に許可を得て、駿河・遠江での独自の軍事活動を容認してもらい、二国を領国化することに成功します。

一方、頼朝も翌21日、賀島(静岡県富士市)から東方の黄瀬川(静岡県駿東郡清水町)に陣を移しました。
黄瀬川の陣は、頼朝が信義と初の会談を行った場所であり、ここから賀島に陣を移したのですが、相模国から富士川に移動しようとした大庭景親を牽制するため、頼朝の腹心である佐々木兄弟の長男・佐々木定綱にここの守りを任せておりました(弟の経高、盛綱らは頼朝に従軍)。

定綱は、頼朝が黄瀬川の陣に戻ると、まずは休息するように進言して早めに休ませると、弟である経高と盛綱を自分の陣に呼びよせたのでした。

「実は困ったことが起きておるのだ」
経高と盛綱を前にして定綱がいきなり困惑した表情で話し出したので、二人の弟は面食らってしまいました。

「昨日のことだ、この陣に源九郎(みなもとのくろう)と名乗る武家が数人の郎等と共に現れてな。佐殿(頼朝)に面会したいというのだ。」

「源九郎?というと、その方は源氏の御一門の方か?」
経高が定綱に尋ねましたが、

「それが定かではないのだ。本人曰く、幼名を牛若といい。幼い頃に京の鞍馬山に預けられ、奥州に逃れていたという。この度、佐殿の挙兵を知り、奥州からここまで駆けてきたらしい」

「それならば迷うことはあるまい。兄者、さっさと佐殿とご対面させれば良いではないか」

「そうはいくか。かの者の話が本当ならば、あの九郎の後ろには平泉の御舘(奥州藤原氏当主/鎮守府将軍・藤原秀衡)が控えていることになるのだぞ。しかしそれならば兵の100や200は連れているのが普通であろう。ところがかの者の郎等はわずか数人じゃ。中には僧形の大男もおる。ワシにはどうにも解せんのじゃ.......」

「太郎兄者(定綱)はそいつが偽者だとお思いか?」
経高が問い詰めますが、定綱は

「それがわからんから、困っておる。平家の間者(スパイ)ということもあるしの」

と頭を抱えてしまいました。

「太郎兄者の御懸念もわからぬではない。じゃが、相談する人を間違えておりまするぞ」

それまで黙っていた盛綱がはじめて口を開くと、「御免」と言って座を立ってしまいました。
しばらくすると、盛綱は北条義時土肥実平を連れてきました。

「太郎兄者、申し訳ないが次郎兄者とワシでは役不足じゃ。ことが佐殿のことなら、このご両所にお聞かせあれ」
盛綱は言うだけ言うと、義時、実平に深く一礼をして、盛綱を促して立ち去っていきました。

残された定綱はバツが悪そうに頭を垂れると、

「佐々木殿、弟御の話では、佐殿のことでなにやら相談があるとうかがいましたが」

と実平が話を切り出しました。
一通りの話を定綱から聞いた義時と実平でしたが、頼朝側近のこの二人にもなかなか正解が出しにくい問題であり、唸り込んでしまったのでした。

ところが、義時が「あ......」という声を上げると

「佐々木殿、その者......いや、そのお方は、確かに「牛若」と申されたのですな?」

「うむ」

「他の名前はございませなんだか?例えば「遮那王(しゃなおう)」とか」

「おお、そういえば鞍馬山に入った際、遮那王に名を変えたと申しておったが.......」

それを聞いた義時は「やっぱり!」と叫んで飛び上がりました。

「いかがしたのじゃ、小四郎殿(義時)」

実平が嬌声をあげる義時を諌めようとしましたが

「土肥殿、覚えてられませぬか?全成殿の話を」

全成(ぜんせい)とは、源義朝と常磐御前の間に出来た子供で、幼名を「今若」と言った僧のことです。頼朝にとっては異母弟にあたります。

全成は醍醐寺に預けられていましたが、以仁王の令旨が発せられると、平家の追求に身の危険を感じて寺を脱走し、東国へ向かう途中、石橋山の合戦で敗走していた佐々木定綱兄弟らと出くわし、佐々木兄弟の継母の祖父にあたる渋谷荘領主・渋谷重国に保護されていました。

去る10月1日、全成は下野国鷺沼に入った頼朝と面会が叶い、その際

「自分は三人兄弟の長男で、弟に乙若と牛若がいる。乙若は園城寺、牛若は鞍馬寺に預けられたと聞く。牛若は鞍馬寺では遮那王と名を変えたらしい」

と自分の兄弟のことを話しており、それを義時が思い出したのでした。

「全成殿のあの時の話が本当ならば、佐々木殿が仰っている源九郎殿は、全成殿の実の弟であり、佐殿の腹違いの弟である可能性が高いかと」

義時の意見に実平はもちろん、定綱も異議を申し上げることはできませんでした。

この後、土肥実平は夕餉を取って落ち着きを取り戻した頼朝に「源九郎」との面会を申し入れました。
頼朝の脇に控えていた北条時政は「源九郎?何者だそれは」と訝しみましたが、源九郎の幼名が牛若・遮那王であることと全成の言葉から、亡き義朝の九男であり、頼朝の異母弟にあたることを伝えると

「もしや......あの平泉の御館に匿われていたという牛若か」

と頼朝が驚き、すぐに面前に連れて来いと命じられましたのです。
生き別れになっていたまだ見ぬ兄弟の対面が始まろうとしていました。

(つづく)
posted by さんたま at 02:10| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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