2016年07月04日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(39)-信義の野望-

西暦1180年(治承四年)10月20日深夜、甲斐源氏棟梁・武田信義の義弟である安田義定が、富士川の東岸から偵察を行ったことがキッカケとなり、対岸(西岸)の平家軍は源氏の夜襲と勘違いして兵は散り散り、総大将・平維盛の本隊も命からがら遠江国(静岡県西部)まで撤退しました。

撤退した平家本隊は侍大将・伊藤忠清によって残存兵力を集めましたが、50騎前後しか集まらず、到底戦ができる数ではありません。維盛はやむ得ず京に退却することを決めました。

一方の源氏側ですが、翌21日朝、武田信義は賀島(静岡県富士市の東端)の源頼朝陣に使いを出し、一晩のうちに平家軍が撤退してしまったことを頼朝に伝えました。頼朝は「まさか」と思いましたが、念のため、実況見分として北条義時(時政嫡男)土肥実平を信義の陣に遣わしました。

信義と安田義定は、義時と実平を連れて馬で富士川を渡り、西岸の平家本陣があったところに入りました。
そこは焼け焦げて灰になった陣幕や、酒盛りで使われた皿や酒、また鎧の一部、弓矢、槍などの武具が無造作に捨てられ、中には馬に踏みつけられた遊女の死体などが転がっていました。

「これは。。。」

あまりの惨状に義時と実平も驚きを隠せませんでした。
狼狽している二人に対し、信義が近づいてこう言いました。

「24日の矢合わせに備えて、この義定を偵察に出しておりました。その時にどうも富士川の西岸で休んでいた大勢の水鳥の大群を刺激してしまいましてな。それが一斉に飛び立ったもんで、それを夜襲と勘違いしたみたいでの」

「しかし、水鳥の羽音を夜襲と勘違いするとは」

と、実平が訝しみましたが

「いや、どうもそれだけではないでしょう。この焼け具合からみて、なんらかの弾みで陣中から火を出してしまったと考えられます。安田殿どの話では、平家の陣では酒宴が開かれていたようですので、それがさらに混乱を増長させ、兵が散っていったと考えるのが妥当なところかと」

と義時が冷静に言いました。

「そういえば、平家の兵が逃げ出しているという噂もあったの」

実平が唸るように続けました。

「いずれにしても、せっかくの矢合わせをパァにしてしまったことは、甲斐源氏の棟梁として佐殿(頼朝)には悪いことをしてしもうた。いずれ挨拶にいくゆえ、そなたたちからも佐殿によしなに」

信義はそう言って二人に詫びを申し上げると安田義定を連れて自陣に帰ってしまったため、義時と実平も頼朝の陣に戻り、委細を頼朝に報告しました。

「うーむ。そうでったか........」

頼朝は義時、実平の報告を聞き、武田信義が平家を追っ払ったという事実を受け入れざる得ないことに不満タラタラでした。

「しかしながら、戦うべき平家がいなくなったのだから、勝ちは勝ちに違いない。さすがは甲斐の武田殿、あっぱれなお働きでございますな」

平家逃走の事態を聞いて駿河に戻ってきた時政は、信義の勇猛さを褒め称えましたが

「いや、それは違いまするぞ、親父殿」
と義時が割って入りました。

「偵察任務の事故とはいえ、武田殿が平家を刺激しその結果平家を逃走させたのは事実。だが、この一件をお味方大勝利とするのは早計。もしかすると、われわれは源氏の中に新しい敵を作ってしまったかもしれんののです」

「小四郎(義時)、それはどういうことか」

頼朝も意味がわからず、義時に尋ねます。

「端的に申し上げれば、この後、甲斐源氏の武田一族に大きな顔をされるとなにかとやっかいかと」

小四郎のこの言葉に怒ったのが時政でした。

「口を慎め小四郎!。武田殿は佐殿と遠祖を同じにする甲斐源氏の棟梁であり、この時政がなんども説得してお味方につかせたことはその方もよく存じていよう。いくら武田が強いと申しても、佐殿は源氏嫡流たる河内源氏の棟梁。そのあたりの分別は武田殿だってわきまえておるわ」

「わしとて、武田殿を家臣とは思うておらん。武田殿はワシと共に源氏の一門、共に平家と戦う得難き同志じゃと思うておる」

頼朝も小四郎の懸念は考えすぎとして戒めました。
そんな時、武田の陣から信義と義定が挨拶にやってきました。
信義は鎧を解いており、通常の武家姿(いわゆる平服)で頼朝に面会しました。

「此度のこと、源氏と平家の因縁の戦であるはずが、ワシの軽挙により台無しにしたこと、誠に申し訳なく存ずる」

信義はこのような口上で頼朝に挨拶を申し上げ、深々と一礼して非礼を詫びると

「いやいや、お手をお上げくだされ武田殿。我らとしては武田殿のおかげで一兵も損なうことなく鎌倉に退却できるというもの。礼を言うのはこちらの方でござろう。さすがは新羅三郎義光公の血を引かれる甲斐源氏の勇猛さよと、今も舅殿や小四郎と話していたところでござった」

頼朝は武田どの詫びを素直に受け止め、そこに遺恨はないことをはっきり申し上げました。
信義と義定は下げていた頭を上げ、

「聞くところによれば、伊予殿(維盛)の兵は駿河を出て遠江国(静岡県西部)まで撤退し、そこで残存兵力をまとめてるとのことでござる。そこで願わくば、遠江国まで我が兵を繰り出す許可を佐殿に頂きたく、罷り越した次第。ワシらがしでかした不始末はワシらできっりり後始末をつけとうござる。」

と申し上げました。
信義の言ってることは回りくどいですが、簡単に言えば、駿河、遠江両国にて甲斐源氏の独自の軍事活動を認めてくれということです。
実際、平家を追っ払ったのは信義ら甲斐源氏であるため、この申し出は道理であり、その権利は十分にありました。

また、ここで頼朝が乗り出していくと、戦の手柄を横取りすることになりかねないため、信義の心象を悪くし、先ほどの義時の話のように源氏内部に不協和音がでないともかぎりません。

「そうよのう......」

と頼朝はしばらく考えを巡らせたあと

「では駿河、遠江のことは武田殿にお任せしよう。ワシらはこれより陣を黄瀬川まで引くこととするので、後のことはよしなに取り計らって頂きたい」

と信義の提案を受け入れました。
信義はこれを嬉々として受け止め

「ははっ。ありがたき幸せ」

と頼朝に頭を下げて、自陣に帰って行きました。
信義としては、この結果に大満足でした。
信義はおおっぴらに駿河・遠江を領国化することができるだけでなく、頼朝が京に向けて西上する時がきた場合、甲斐源氏を無視して西上することは困難になったからです。

一方、頼朝には黄瀬川でやるべきことがありました。
それは、海上で捕らえた伊豆の豪族・伊東祐親と相模山中で捕らえられた平家方武将・大庭景親の処断でした。

(つづく)
posted by さんたま at 18:49| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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