2016年06月25日

真田丸解体新書(8)その後の北条氏

先週(6/17) 放送の「真田丸」で小田原征伐が終わり、北条氏の滅亡がナレーションで語られていました。

ですが、ここでいう「滅亡」とは「関東に覇権を築いた独立勢力(戦国大名)としての北条氏」を意味するのであって、「大名としての北条氏」はちゃんと存続しています。歴史の授業ではこのあたりを全然フォローしないので、ここでちゃんと説明したいと思います。

というわけで今回のテーマは
「北条氏は永遠に不滅です!」です。


1、なぜ小田原征伐が起きたのか
小田原征伐の発端は、おおむねドラマ内で描かれた通りですが、ここでおさらいします。

西暦1585年(天正十三年)に関白・豊臣秀吉が関東・欧州の大名に向けて「おーい、戦争は止めなさい!」と命じたのを「惣無事令(そうぶじれい)」といいます。

ところが、関東地方を支配する大大名・北条氏(正確には御北條氏ですが、便宜上北条氏)の武将で、猪俣邦憲という人が信濃国の大名・真田昌幸の領土および持ち城である「名胡桃(なくるみ)城」を攻め落としました。

この時、秀吉は「関白」の地位にあり、天皇の政務を代行する地位にありました。よって秀吉の命令違反は、天皇に対する命令違反であり、この時点で北条氏は「朝敵」となり、秀吉の手によって小田原征伐が開始されました。


2、小田原征伐の流れ
小田原征伐の流れは次の通りです。

【豊臣主力部隊】
西暦1590年(天正十八年)3月27日、秀吉が静岡県沼津に到着。
軍議の結果、山中城(静岡県三島市)韮山城(静岡県伊豆の国市)の攻撃を決定。
翌28日、織田信雄ら44,000兵が韮山城を攻撃開始。29日、豊臣秀次・徳川家康ら70000兵が山中城を攻撃。半日で落城。同日、徳川家康は鷹之巣城(神奈川県箱根町)も落としました。

韮山城は包囲戦になったため、最小兵力だけ残して小田原方面に進軍し、途中4月1日に井伊直政(徳川家康家臣)が足柄城(静岡県と神奈川県の境、足柄峠付近)落城させ、同3日、小田原城へ到達しています。

小田原に到着後、秀吉は小田原城の南西にある笠懸山(神奈川県小田原市)に築城を開始。のべ4万人の人夫が80日間の土木工事の末、総石垣の城を築きました。

【北方軍】
前田利家を大将とし、上杉景勝、真田昌幸、松平康国らで構成される35,000兵は、上野国松井田城(群馬県安中市)を攻め、4月22日に開城させると上野国の諸城を次々と開城させ、主力部隊から徳川勢の一部が割かれて北方軍と合流したあとは、武蔵・下総国(東京都および千葉県内)の北条方の城を片っ端から落城、開城させていきました。


3、揺れる北条氏
小田原城の包囲したあとの秀吉は、淀殿千利休などを呼び、物見遊山の状況で相手が日干しになるのを待っていました。

一方の小田原城内では、城を討って出るのか、降伏かの議論が終わらず、いたずらに時間ばかりが経過していました。

籠城を2ヶ月を超え6月になると、北条方の支城の人質の一部が城から脱走する事件などが起きはじめます。
それはやがて北条氏重臣・松田憲秀その子・笠原政晴「豊臣方内通発覚」という事態に発展します(政晴は北条氏直によって成敗、憲秀は監禁)。

6月12日には隠居である北条氏政の生母・瑞渓院(今川義元の妹)継室(奥様)である鳳翔院が死去(自害と思われる)しており、城内においてなんらかの混乱が生じていることがわかります。

6月14日、北条氏の北関東の拠点である鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)が落城。北条氏邦が出家しました。
さらにその1週間後の6月23日、八王子城(東京都八王子市)落城による多数の首が小田原城に届けられ、城内の士気は一気に低下しました。

とどめが6月26日、小田原城の南西・笠懸山に突如登場した「石垣山一夜城」でした。
工事中、周辺の林をそのまま残して作業を行い、完成後一夜のうちに一気に伐採したため、小田原城からは、一夜で城ができたように見えたのです。

もはや小田原城には秀吉と戦う気力は残っていませんでした。それでも重臣達の評定が決することはありませんでした。


4、和睦への道
6月24日、韮山城主だった北条氏規徳川家康の説得を受け入れて城を開城し、小田原城に戻ってきました。

氏規は北条一族の中において情勢を見通す目を持っており、秀吉の九州征伐完了時に、しきりに氏政に上洛を薦め、自らも何回も上洛して戦の回避にあたっていた北条一族の外交担当でした。

氏規は、徳川家康より娘婿である氏直宛に託された「和睦の道を探るように」とのメッセージを伝えると、

「今からでも遅くはない、徳川家康を窓口に和睦交渉をするのだ!」

と氏直を説得。自らの副官に太田氏房(氏直弟)を付けて、7月1日より極秘の和睦交渉が開始されました。

日に日に開城されていく支城の数々から情勢から、時間をかけても北条氏に利するものは何もありませんでした。あるのは一刻も早い和睦のみ。氏規と家康との間で和睦の条件が整い、家康が秀吉に具申すると、秀吉は羽柴雄利(秀吉家臣/織田信雄家臣)を降伏の使者として小田原城に遣わしました。

7月5日、氏直は羽柴雄利の陣を訪問し、当主である自分が切腹するから城兵の命は助けてほしいと降伏を申し出ます。雄利から秀吉にその意志が伝えられました。

ここに関東に覇を打ち立てた北条氏は、豊臣秀吉に降伏しました。


5、仕置
秀吉は氏直が出した条件(自身の切腹)を認めず、今回の戦争の首謀者を、隠居である北条氏政とその弟で八王子城主である北条氏照と断罪しました。さらに家中の意見を統一できず、いたずらに戦争を長引かせたとして、北条家宿老・松田憲秀大道寺政繁の2名が責任を問われ、計4名の切腹が行われました。

松田憲秀は秀吉との内通疑惑で城内に監禁されており、また大道寺政繁は居城である松井田城で秀吉に降伏後、秀吉方の武将として忍城、鉢形城、八王子城攻めに積極的に戦闘に参加しておりました。

それでも切腹を命じられた背景は、憲秀の内通は北条氏を優位に導くための内通であり、秀吉に取り立てることを目的としたわけではなかったこと、また逆に政繁は旧主の恩を忘れて積極的に戦闘に参加した不忠者として罰されたと考えるべきかと思います。
(要するに利用するだけ利用して用済みになったらポイと捨てちゃった。。。ということ)


6、その後の北条氏
7月11日、氏政、氏照の両名が切腹した後の翌12日、秀吉は氏直に高野山への追放処分を申し渡しました。

秀吉は北条氏の所領を没収し、戦国大名としての北条氏を滅ぼしましたが、北条氏当主である氏直については、その命を助け、北条氏の一族ならびに家臣たちの同道も許し、相応の扶持を与えています。これは敗戦側の当主としては異例ともいえる厚遇であり、氏直が家康の娘婿であったとしても、破格な扱いです。

また家康も娘婿の手向けとして、氏直の直臣に印判状を与え、印判状持参のものは徳川家にて召し抱える旨を氏直に伝えたと言われます。

本来であれば、このまま流人として終わる氏直でしたが、翌西暦1591年(天正十九年)2月、秀吉から家康に「北条氏直赦免」の文書が発行されており、わずか半年たらずで罪を許されることになりました。

高野山追放時の厚遇から考えると、秀吉が行った氏直の仕置は、最初から氏直を許すことを想定した処分ではないかと思えてなりません。

5月には秀吉から旧織田信雄邸(信雄は小田原征伐の論功行賞による領地替えを拒否した為、取り潰された)を与えられ、8月19日には大坂城で秀吉と対面し、下野国(栃木県)に4000石の領地を賜って、北条家再興を果たしています。

見事、御家再興を果たした氏直でしたが、新領地の治政体制を整えている最中、疱瘡にかかり、同年11月4日病死しました。享年30と言われます。


7、大名として復活(狭山藩の立藩)
氏直には嫡子がいなかったため、叔父・氏規の子である氏盛が養子となって家督を継ぎ、氏直の遺領である下野4000石を相続しました。

しかし、西暦1600年(慶長五年)2月8日に実父・氏規が56歳で亡くなると、家康より氏規の遺領・河内国丹南郡7000石を相続するように命じられ、河内・下野合わせて1万1000石となり、大名に復帰します。関ヶ原の戦いでも東軍に味方したため本領安堵となり、幕藩体制下で狭山藩を立藩しました。

以後、北条氏は若干の石高の変更はあれど、幕末に至るまで狭山藩主としてその名を後世に残しています。

小田原征伐によって「戦国大名としての北条氏」は滅び、氏直は高野山に追放されたのは事実であり、学校の歴史の授業もそこまでしか伝えませんが、氏直は小田原征伐の翌年には許され、その子孫は近世大名(狭山藩)として江戸時代を生き抜いたのです。

北条氏は永遠に不滅であります(笑)
posted by さんたま at 19:09| Comment(0) | 真田丸解体新書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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