2016年06月19日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(37)-八幡太郎の導き-

西暦1180年(治承四年)10月18日、甲斐源氏棟梁・武田信義率いる2万騎は黄瀬川(神奈川県御殿場市)にて、河内源氏棟梁・源頼朝と合流。河内・甲斐源氏の軍勢はおよそ10万騎に膨れ上がっていました。

この時、北条時政・義時父子そして加藤光員・景廉兄弟は、約1ヶ月半ぶりに頼朝と再会をしました。
頼朝のもとには、石橋山の合戦後、時政嫡男・宗時の討ち死にのみが伝わり、時政、義時の生死は不明だったため、両氏が生きていたことを大層喜んだと言われております。

そして、頼朝は自らの口から、時政に宗時の死を伝えました。
時政の嫡男である宗時は、石橋山の合戦の折り、領地である北条庄を守ることを父・時政に命じられ、一人別行動を取っていました。その途中、伊東荘の領主である伊東祐親らに襲われ、その命を散らしました。

文武両道に秀でた宗時は申し分のない嫡男でした。ゆえにその死は次男であり、宗時の弟である義時の運命を大きく変えることになりました。

義時は学問好きで博識ではあるが、武勇においては宗時に大きく劣っていました。しかし、時政にとっては、もはや背には代えられず、以後、義時は北条氏嫡男としての道を歩むことを背負わされます。

頼朝と信義は協議の結果、10月24日を矢合わせ(開戦)と定めました。
これ以後、北条時政・義時父子、加藤光員・景廉兄弟は頼朝軍に従うことになります。

同日、信義は黄瀬川から富士川(静岡県富士市)に向けて軍を進めていたところ、相模方面から同じく西に向けて同じように進軍していた千騎の軍勢と遭遇しました。

源氏の軍勢ならば、頼朝の統制下にあるため、1部隊単体で西に向かおうとするはずがありません。
信義は、これが相模国の平家軍の一部ではないかと察知し、急ぎ軍勢を追いかけて名乗りを上げてみると、なんと石橋山の合戦で頼朝軍を壊滅させた大庭景親の軍勢だったのです。

信義はすぐさま隊列を立て直し、一定の距離をおいて景親の軍勢を威嚇しました。
景親の軍勢は千騎、信義の軍勢は2万騎です。石橋山では景親は3000騎、頼朝が300騎で10倍差でしたが、今回の差は20倍に膨れ上がっていました。

(まともにぶつかっては勝ち目はない)

そう悟った景親は、軍を西に進めるのを諦め、東に後退させました。
信義の軍勢がさらに追い討ちをかけて東へ進軍します。景親は信義の攻撃を防ぎながら退却する戦を余儀なくされました。

信義は景親軍を追いながら、北条時政に助勢を頼む伝令を送ると、駿河と相模の境まで景親軍を追いました。
あとから伝令を受けた時政の軍勢が信義の軍勢と合流し、以後、時政の軍勢が景親の軍勢を相模国に封じ込めることになります。

信義は景親を相模国に追った後、当初の予定どおり富士川に向かって再び進軍しました。

また、翌日19日には、伊豆国の平家方武将・伊東祐親・祐清父子が、船で駿河国に渡ろうとするところを、源氏の軍勢に取り押さえられ、囚われの身になっています。

これにて、石橋山の戦いで頼朝を散々苦しめた大庭景親・伊東祐親の両名は源氏に抑え込まれたことになります。

この2つの事象が2日連続で起きたことに、源頼朝も武田信義も「八幡太郎(源義家)のお導き」を感じざる得ませんでした。

平家・源氏の両軍の空気は、ますます緊迫の度合いを高めていました。

(つづく)
posted by さんたま at 23:59| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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