2016年05月29日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(36)-甲斐源氏の参戦-

西暦1580年(治承四年)10月16日、源頼朝は源氏に味方する東国武士の手勢およそ4万ほどを引き連れ、鎌倉を出発。平維盛率いる平家軍が進軍を進める駿河国(静岡県)へ向かいました。

そしてこの頃、甲信越地方に頼朝とは別の源氏の勢力がありました。
甲斐国(山梨県)を地盤とする甲斐源氏・武田氏の勢力です。

甲斐源氏・武田氏は、河内源氏二代目棟梁の源頼義(陸奥守 兼 鎮守府将軍)の三男・源義光(新羅三郎)を先祖とする源氏の庶流にあたります。つまり頼朝とは同族にあたります。

義光の子・義清が常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市武田)を父より譲られて「武田冠者」を名乗ったことから、武田を称していますが、記録上、甲斐源氏武田氏の初代は、義清の孫・信義の代とされています。そしてこの武田信義こそ、この時の武田氏棟梁なのです。

各地の源氏の例に漏れず、信義の元にも「以仁王の令旨」は届いており、同年8月、挙兵して、甲斐国内の平家勢力の撃破に成功します。しかし頼朝の石橋山合戦の敗退を聞くや一切の軍事活動を停止させ、模様眺めに入りました。

しかし、平家方は甲斐国内の勢力を回復せんと、8月25日には、大庭景親の弟・俣野景久が甲斐国に攻め入りますが、これを甲斐源氏の安田義定(信義の弟)工藤行光らが「波志田山」で応戦し、見事、俣野影久を敗退させました。

当時、武田信義のもとには、石橋山の合戦で頼朝と別れた北条時政、義時親子が滞在していました。

時政は石橋山の合戦の敗退は「三浦氏の助力が間に合わなかった」ことは当然として、それ以上に「東国の源氏の勢力の結集がままならなかった」ことを重く見ており、頼朝が生きて再び再起するためには、河内源氏庶流の甲斐源氏武田氏を味方につける必要があると考え、説得を繰り返していました。

信義はすでに五十三歳を超え、当時としては老齢の域に達していました。そのため、甲斐源氏棟梁として武田の家を守ることを第一義に考えていたところに、同じ甲斐源氏の安田義定、工藤行光らが「波志田山」で平家方を破ったという報が届きました。

「甲斐国内の平家勢力を討ったことならば、国内の政情不安定のために鎮圧したという大義名分が立ちます。ですが、安田、工藤両氏が甲斐に攻め入った平家勢力を撃滅したということは、明らかな平家への反逆行為。甲斐源氏の行く末を案じられるなら、取るべき道は1つしかないでしょう。」

この時政の説得に応じた信義は、9月10日、息子の一条忠頼と共に信濃国諏訪(長野県)に攻め入り、14日に甲斐に帰国するまでの間に信濃国の平家方を一掃しました。

甲斐、信濃を平定した信義は、9月24日、休む間もなく次の目標を駿河(静岡県)に定めました。そしてその動きは平家方の駿河国の代官・橘遠茂の知るところとなり、駿河・遠江両国で兵を集めて、信義に対抗する準備を取っていました。

10月13日、武田信義は安田義定、一条忠頼ら甲斐源氏の諸将と、北条時政・義時父子を伴って甲斐を出発。その途中で石橋山の戦いで逃げていた加藤光景・景廉の兄弟らを加え総勢2万騎近くになっていました。

翌14日、信義は橘遠茂の軍勢と駿河国鉢田(富士山の麓あたり)で激突。この戦は山の戦いに長けている武田勢に地の利があり、橘軍は本来の強さを発揮できず全軍3千騎が壊滅。総大将・橘遠茂は捕虜となってしまいます。

北条時政は、捕らえた橘遠茂より、頼朝の軍勢が黄瀬川(静岡県御殿場市)近くまで進軍してきていること、そしてその頼朝を討つべく、平維盛率いる平家追討軍がすでに駿河に入っているという情報を聞き出すと、加藤景廉を頼朝への使者として遣わす許可を信義に求めました。

「平氏勢力をこの東国から完全に追い出すため、何としても今回の平伊予(維盛)殿率いる軍勢には勝たねばなりません。そのためには、東国武士の力を集めて西上してきた右兵衞佐殿と合力し、勝利を完全なものにする必要があります」

時政は信義に頼朝の合力を薦めますが、信義は、戦の主導権を頼朝に奪われることが面白くありませんでした。
河内源氏棟梁・源頼朝から見れば、甲斐源氏は庶流であり、信義から見ても頼朝は本家にあたります。

しかし、信義は甲斐、信濃、駿河の平家勢力を駆逐してきたのは自分たち甲斐源氏であるという自負がありました。そのため、安房、上総、下総、武蔵、相模の武家をまとめてきた頼朝に妙な対抗意識を持っていたのです。

またここで維盛に味方して、頼朝の勢力を瓦解させ、自分自身が東国を支配する野心もなかったわけではありませんでした。

鉢田合戦の三日後の10月17日、信義は、平維盛に対し、一通の書状を送っています。
その内容は

「天下に名高い亡き小松殿(平重盛)のご子息・平伊予殿が、帝の宣旨を受けて駿河国に進軍されていると聞き、当方よりお伺いしたいのですが、道が険しくままなりませんので、浮島ヶ原(静岡県沼津市)でお会いしませんか?」

信義としては、平維盛の軍勢と対峙し維盛の態度によって、維盛に味方するか、あわよくば甲斐源氏の兵力のみで維盛の軍勢を殲滅するかを画策するつもりでした。

しかしながら、維盛はそうは受け取りませんでした。
維盛は朝廷より宣旨を賜っての追討軍であり、いわば「官軍」です。その「官軍」に対し「道が険しいので合流はしません。(自分が行きやすい)浮島ヶ原で落ち合いましょう」とは無礼に匹敵する行為であります。

信義の手紙は維盛軍の侍大将である伊藤忠清を激怒させ、信義の使者は斬られてしまいました。

(これにて道は決まった)

使者が斬られた報告を受けた信義は、時政のアイデアであった加藤景廉を使者として遣わすのではなく、自ら頼朝の軍勢に合流することを決め、黄瀬川(静岡県御殿場市)に軍を進めました。

10月18日、武田信義は黄瀬川にて源頼朝と合流。河内・甲斐源氏の軍勢はおよそ10万騎に膨れ上がっていました。

源氏と平家の対決の時は刻々と近づいていたのです。

(つづく)
posted by さんたま at 18:41| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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