2016年05月07日

真田丸解体新書(7)運に見放された滝川一益という男

大河ドラマ「真田丸」の中には、登場人物の末路がナレーションで終わってしまう「ナレ死」と呼ばれる締め方をされる人物が多くいます。今回はその中から、「真田丸」の前半である「天正・壬午の乱」で出てきた、段田安則さんが演じていた滝川一益について語ってみたいと思います。

1、国衆からのし上がった苦労人
滝川一益は、近江国甲賀郡(滋賀県甲賀市、湖南市)の「国衆」・滝川氏の出身とされており、若い時に鉄砲に出会い、鉄砲に魅せられてその運用技術を学び、その技をもって、弘治年間(西暦1555年〜1558年)の間に織田家に仕官したと言われています。

一益が織田家において成した功績として、記録上最も古いものは、西暦1563年(永禄六年)の三河国(愛知県東部)の松平元康(後の徳川家康)との間で締結された清洲同盟でした。この時の一益は「織田家の代表」として松平家との交渉を担当しております(松平家の代表は石川数正)。

その4年後の西暦1567年(永禄十年)から始まる織田信長の伊勢(三重県)攻略に加わっており、西暦1569年(永禄十二年)8月には、伊勢国主である木造具教の弟・具政を織田家に寝返らせる大手柄をあげるだけでなく、決戦となった大河内城(三重県松坂市)の戦いでも手柄を立て、終戦後、伊勢国内三城(安濃津城、渋見城、木造城)の守将を信長より命じらました。

その後の一益は、信長の主だった軍事活動の多くに参加してますが、長島一向一揆の際は、九鬼水軍の九鬼嘉隆と共に船上から鉄砲で射撃を仕掛けたり、長篠の合戦では鉄砲隊の総指揮を担当。

毛利氏の戦いである第二次木津川口の戦いでは、九鬼水軍の鉄甲船開発に加わるなど、鉄砲および当時の先端技術に関する実績が多いようです。

また、一益には策を用いて人を操る「調略」の才能もあり、先の伊勢攻略における木造具政の寝返りのみならず、西暦1578年(天正六年)7月の摂津有岡城の荒木村重の謀反(有岡城の戦い)においては、城内に4つある砦のうち、上搨ヒ砦の守将・中西新八郎と宮脇平四郎を寝返らせた上、同砦を守っていた足軽大将まで寝返らせ、同砦の抵抗を完全に無力化することに成功。有岡城の落城に多大な功績をあげています。

こうした功績の数々は信長から高く評価され、北伊勢5郡(北伊勢地方の2/3)の支配を許されただけでなく、西暦1580年(天正八年)からは、北条氏との取り次ぎ役である「関東申次衆」3人のうちの1人となり、翌年からは一益のみが「関東申次役」となるなど、織田軍団においてはなくてはならない人材へと出世していきます。

西暦1582年(天正十年)2月、織田信長が甲斐武田氏を攻めた際(甲州征伐)、一益は河尻秀隆森長可(森蘭丸の兄)らと合流し武田領国内の城攻めを行うだけでなく、武田勝頼を天目山に追い詰めて自害に追い込むという大功を上げています。

この戦いで一益は、上野一国(群馬県)と信濃国小県郡(長野県上田市、東御市、小諸市)、佐久郡(長野県北佐久郡、南佐久郡、佐久市)を恩賞として賜り、さらに関東管領に任じられ、北条氏との取次役である「関東申次役」もそのまま留任となっています。

この段階で、一益は、織田軍団における関東地方の方面司令官の役割を与えられたと言っていいでしょう。

以後の一益は上野箕輪城(群馬県高崎市箕輪町)を居城とし、織田家の勢力を関東に広げる活動に全力を傾けます。一益は安定治世のためには国衆を取り込むことが第一と理解しており、国衆の在地支配をそのまま許したため、一益に対する求心力は次第に高まっていきました。

やがて一益は関東だけでなく、陸奥(東北)の伊達氏、蘆名氏とも通じるようになります。


2、運命を変えた本能寺の変後
西暦1582年(天正十年)6月2日、織田信長が明智光秀によって討たれますが、一益がこれを知ったのは6月7日だそうです。その3日後の6月10日は、一益は上野国内の国衆を箕輪城に集め、「これより京に上って光秀と一戦する」ことを国衆に伝えています。

しかし、一益と同じタイミングで「信長死す」の連絡を受けていた北条氏政は、「待ってました!」とばかりに6月16日、嫡男・氏直を筆頭に約六万の軍勢を上野国に差し向け、一益を討ち取ろうと軍事活動を開始しました。

一益は1万8000の兵でこれに対抗し、18日両軍は武蔵国で激突。一益はかろうじて勝利を得ましたが、翌19日の合戦で関東の国衆の出足が悪く、厩橋城(群馬県前橋市)に敗走しています。

これ以上の遅滞は命取りになることを恐れた一益は、同月20日には上野国の国衆を箕輪城に集め、それぞれの人質を解放して酒宴を開き、国衆の求心力の安定を図ります。そして同日深夜に箕輪城を出発しました。

一益は碓氷峠(群馬県安中市と長野県軽井沢町との境)を越えて、21日小諸城に到着しました。しかし、信濃国木曽郡を支配する木曽義昌の妨害を受けてしまい、信濃国小県郡、佐久郡の国衆の人質の引き渡しを強要されてしまいます。

一益は義昌と交渉を行いますが、妥協点が見出せず、時をいたずらに消費するわけにはいかない一益は根負けして、28日に木曽義昌の居城で人質を解放。ようやく織田領国下である美濃国に入ることができました。
(このあたりはドラマでもちゃんと描かれていましたね)

ところが、肝心の明智光秀は羽柴秀吉によって6月13日に討たれ、なおかつ織田家の跡取りと将来を決める清洲会議も同月27日に開催されてしまったため、すでに織田家の跡取りは信忠嫡男・三法師に決まった後でした。

そう。一益が美濃国に入った時は、すべてが決してしまった後だったのです。

やむえず一益は岐阜城で三法師に挨拶を申し上げると、7月1日、自分の領国である伊勢長島城に帰城するしかありませんでした。


3、その後の滝川一益
清洲会議の結果、織田家の跡取りは三法師となりましたが、これに面白くないのが、信長次男・信雄と三男・信孝でした。特に信孝は柴田勝家と連絡を取り合いつつ、秀吉に対抗していましたが、同年12月20日、秀吉は岐阜城を攻めて信孝を降伏させ、勝家を牽制しはじめます。

これを黙ってみている一益ではありませんでした。

西暦1583年(天正十一年)正月、一益は柴田勝家に助力するため、伊勢長島城で挙兵すると、伊勢国内の秀吉方の武将の城の攻撃を開始します。これは柴田勝家と示し合わせた上での行動であると考えられます。

秀吉が大軍を率いて出張ってくると一益は長島城に籠城。
その隙に柴田勝家が越前北ノ庄城から長浜城に向けて軍勢を動かしました。

驚いた秀吉は2万の軍勢を蒲生氏郷に預けて長島城攻撃を続行させると、自分自身は即座に近江長浜城に戻り、柴田勝家と余呉湖畔(賤ヶ岳)で戦い、4月23日、越前北ノ庄城を落城させ、勝家を自害させます。

さらに4月29日には信雄の名前で信孝が自害を命じられたため、一益は完全に孤立してしまいました。

同年7月、滝川一益、羽柴秀吉に降伏。
上野国、信濃国小県郡、佐久郡、北伊勢5郡の所領はすべて没収され、一益自身は出家することになります。

しかし、西暦1584年(天正十二年)織田信雄・徳川家康連合軍が秀吉に対して挙兵すると、一益は出家の身でありながら、秀吉に呼び戻され、この戦い(小牧・長久手の戦い)に参加することになります。これは秀吉が一益の武将としての能力を高く評価していたことに他なりません。

一益は、この戦いの本戦には参加しておりませんが、秀吉の命令で調略活動や出城の攻略などで手柄を上げ、一益には恩賞として3000石が。一益の次男には伊勢長島に1万2000石の所領が与えられ、滝川家の再興を成功させています。

その後の一益は、過去に関東地域の方面司令官だった実績と経験を買われ、対北条氏に対する秀吉の外交顧問的存在に落ち着き、西暦1586年(天正十四年)61歳で死去します。

家督は次男の滝川一時が相続しましたが、徳川時代になって秀吉から与えられた1万2000石は没収となり、その子孫は徳川より1200石を賜って徳川幕府の旗本として血脈を繋いでいます。

滝川一益は鉄砲術に秀でて、先端技術の導入に長けており、かつ調略の名人であったことから、武将としては非常に優れた部類に入る者だったと思います。

しかし、彼の人生は「本能寺の変」と「賤ヶ岳の合戦」の2つの事件により、織田軍団の一角を担う方面司令官からで真っ逆さまに転げ落ちる人生になってしまいました。

それでも息子を大名として返り咲きさせたあたりは、やはり只者ではないのかもしれません。
posted by さんたま at 22:14| Comment(0) | 真田丸解体新書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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