2016年04月28日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(34)-続発する源氏の挙兵と平家の対応-

源頼朝が安房国(千葉県南部)で再起を図っている頃、畿内の平家一門はようやく源氏の挙兵を知ることになります。

西暦1590年(治承四年)9月1日、大庭景親による「頼朝挙兵」の一報が、平清盛の元に届けられました。当時の清盛は、その強権を以て強引に京都の平安京から摂津の福原京(兵庫県神戸市中央区)に都を異動させていました。頼朝挙兵の知らせを福原京で受けた清盛は、烈火の如く怒りました。

これから遡ること20年前の西暦1160年(平治元年)12月、京では後白河法皇二条天皇の両派閥の側近同士の武力闘争が起き、両派閥は共倒れとなって最終的には平氏一門の一人勝ちになった戦いがありました。これを平治の乱と言います。

当時、正五位下・下野守だった頼朝の父・源義朝は、二条天皇側の有力武将として後白河法皇の側近・信西を討ち、従四位下・播磨守に昇進しましたが、策略を使って後白河法皇・二条天皇の両方を味方に引き入れた平清盛と戦って大敗し、東国に逃亡中、暗殺されてしまいます。

義朝の嫡男・頼朝は、平家に捕らえられましたが、清盛の継母である池禅尼や後白河方法の姉である上西門院の命乞いにより、死は免れ、「右兵衛佐(うひょうえのすけ)」の官位剥奪の上伊豆国に流されました。
(頼朝が「佐殿」と呼ばれるのはこの旧官位によるものです)

本来なら死刑は免れなかったところ、継母や朝廷の女性陣から命乞いをされては、これから権力を手中におさめようとする清盛にとっては、その意向は無下にはできなかったと思われます。

そして20年の時を経て、この命乞いが無駄になるどころか、平家に対して牙をむき出してきた事実に、清盛は己の判断の甘さを嫌という程思い知ることになります。

しかし、以仁王の一件によって、清盛は諸国の源氏の族滅を狙い、頼朝の牽制として大庭景親を領国に帰還させていました。つまり、清盛の読みは見事的中していたことでもありました。

頼朝挙兵の知らせを受けてから4日後の9月5日、清盛は平家本体から追討軍を関東に送ること決意します。

この時点で清盛は大庭景親が頼朝を討ち洩らしたこと、頼朝が安房に亡命していることを平家の独自情報ネットワークによって得ていたものと思われます。

追討軍の総大将は、平維盛(たいらのこれもり)
清盛の嫡男・平重盛の子で、清盛の嫡孫にあたります。但し、重盛が前年の西暦1179年7月にすでに亡くなっていた為、平家の後継者の地位は、清盛三男の平宗盛に移っていました。

清盛が追討軍の総大将に維盛を据えたのは、平家の嫡流は重盛の血統にあることを平家一門の中で認めさせ、宗盛が後を継いだとしても、重盛流が不憫なことにならないよう、特別に計らったのではないかと自分は思います。

ところが、ここで思わぬことが起きてしまいます。

維盛は、父を亡くしたばかりで自分の力を一門に認めさせる絶好の機会だったために、兵が集まるとすぐにでも出陣する意向でしたが、これに平家一門の猛者である伊藤忠清が維盛が主張する出陣日が「忌日」であることを理由に出陣を延期したため、追討軍の出陣は、清盛が出兵決定してから17日後の9月22日でした。

この17日間が平家の運命を分けたと言っても過言ではありませんでした。
なぜかというと、この間に諸国の源氏に様々な動きが生じていたからです。

まず、9月4日には、下総国千葉荘(千葉県千葉市中央区)で、下総の有力武将・千葉常胤の孫、千葉成胤が、清盛の姉婿である藤原親政を討ち果たし、下総国で反平家の旗を掲げていました。

次いで、9月7日には、信濃国水内郡市原(長野県長野市)にて、頼朝と同じ河内源氏の一族である・源義仲(通称:木曾冠者義仲)が挙兵して平家方武将・笠原頼直を撤退させて、信濃国で反平家の旗を掲げました。
(源義仲の父は源義賢といい、頼朝の父・源義朝の異母弟ですので、義仲と頼朝は「いとこ」関係になります)

そして、同じく河内源氏の一族である甲斐源氏四代目・武田信義(武田信玄の祖)が、同族の安田義定と共に反平家の兵を挙げ、8月25日に駿河国の代官である橘遠茂を討ち果たし、甲斐・駿河両国から平家の影響力を駆除すると、9月10日には、信濃国諏訪一帯の平家方の豪族を討ち果たします。

これにより、伊豆、安房、下総、信濃、甲斐、駿河(長野県、山梨県、静岡県の一部、千葉県の一部)で反平家の兵が挙がったことになり、これに隣接する尾張、三河、遠江(愛知県、静岡県の一部)など東海道一帯における平家の影響力は著しく低下していました。

その状況において、9月22日に福原を発した平家の追討軍が、東国を目指す途中における東海道一帯の武家に招集を呼びかけても、なかなか集まらなかったのです。

一方、安房安西氏、下総千葉氏を味方につけた源頼朝は、三浦一族の和田義盛が上総国の有力武将・上総広常を見事に説得し、味方に引き込むことに成功していました。この段階で頼朝は上総、下総、安房(千葉県全域)の反平家の武家の力を結集していたのです。

時の流れはじわじわと源氏に傾きかけていました。

(つづく)
posted by さんたま at 00:25| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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