2016年04月24日

真田丸解体新書(6)徳川家のネゴシエイター・石川数正(後編)

※前回の続きになります

1、石川数正の出奔の理由
石川数正の徳川家出奔は、家康が秀吉と唯一戦った「小牧・長久手の戦い」の1年後であり、徳川と真田が戦った「第一次上田合戦」の終了直後のことです。
タイミング的に、これらはまず無関係ではないと思っています。

「小牧・長久手の戦い」は戦闘そのものとしては、秀吉の伏兵策を破り、秀吉をさんざん翻弄させた家康の勝ちと言えるでしょう。しかし、秀吉は調略で尾張の織田信雄を降伏させてしまいます。

家康は「織田家の同盟者」としての立場で信雄に味方していたので、信雄が秀吉に降伏すると、家康は戦いに参加する大義名分がなくなってしまいました。よって、頭脳戦では秀吉の勝ちと言えると思います。

つまり、家康も秀吉も「どっちも俺らの勝ち」と勘違いしてしまったことにこの戦いの不幸があります。

秀吉から本件の和睦の使者が徳川の浜松城に来た際も、秀吉から出された和睦の条件が、家康の次男坊・於義丸(のちの結城秀康)を人質に出すことだったので、徳川家中は

「なんで勝った方が人質をださねばならないなんだ!」

と怒り爆発だったそうです。

数正は、秀吉のこの和睦の条件を「人質」から「養子」に切り替えて、徳川家中を納得させました。

数正が秀吉との和睦を急がせたのは、この頃、信濃真田氏の挙動がおかしく、万が一のことを考えて、徳川家として急ぎ兵力を上田方面に割かねばならない事情がありました。また、徳川領内において地震や洪水などの天災に見舞われることが多く、内政面の充実も急務でした。このため、西のことは一刻も早く丸く収めなくてはならなかったのです。

一方の秀吉も、家康との戦いと同時並行で進めていた紀州征伐の進捗が思わしくないことから、家康に向けている兵力を引き揚げさせて、紀州(和歌山県)に投下したいため、家康とは早々の停戦が不可欠でした。一方で秀吉は、越後(新潟)の上杉、安芸(広島)の毛利、常陸(茨城)の佐竹と通じて、外交戦略による味方も着々と増やし、徳川家の周辺を牽制していきます。

数正としては「やれやれ、これで一安心」という状況を作り上げたと思っていました。

この後の数正は、於義丸の養子縁組の準備などに振り回され、徳川家の主だった軍事活動には参加しておりません。それにともない、大坂城と浜松城を行ったり来たりすることも多くなり、徳川家中の中には「石川殿はいったいどこの家の家臣なのか」という陰口がでるようにもなりました。

数正の願いはただひとつ「徳川家と羽柴家の安泰」でした。
数正は秀吉と戦っても負ける気はありませんでした。ですが、領内の自然災害によって徳川家は国力を大きく損ねていました。徳川家の家老であり岡崎城代として三河を治政を預かる数正にとって、

「今は羽柴と戦う時ではない」

ということが十分わかっており、両者の和平のためなら、どんなことでも心を砕くつもりでした。

しかし、この頃の秀吉の勢いはとどまるところを知りませんでした。
秀吉は、西暦1585年(天正十三年)4月22日、紀州征伐を完了させると、同年5月4日、黒田官兵衛に淡路出兵を命じ、四国征伐を開始します。

四国をほぼ支配下に置いていた長宗我部家と徳川家は同盟を結んでいたため、数正の心は千々に乱れました。

さらに同年7月、羽柴秀吉は「藤原」に改姓し、同月11日、従一位関白に任じられました。
朝廷が羽柴家の力を公のものと認めたのです。
翌年9月9日には、朝廷より「豊臣」の姓を賜り、「藤原秀吉」から「豊臣秀吉」になりました。

数正は、この頃から、とどまるところを知らない秀吉の勢力と権力に、言いようのない恐怖を感じ始めます。
そんな中、徳川家、いや数正にとって予想外の事態がおきます。

西暦1595年(天正十三年)8月 
第一次上田合戦にて徳川軍、真田軍に大敗北


それを知った秀吉は、「チャーンス到来!」とばかりに、さらに徳川家への圧力を強めていきます。
第一次上田合戦の翌月、秀吉は徳川家に対し「豊臣家に異心なくば、上洛して人質をだすように」と要請を行います。出さなければ関白の名において逆賊としてこれを討つという意味です。

これに反発にしたのが、徳川家筆頭家老の酒井忠次本多忠勝榊原康政らの武闘派の面々でした。

武闘派の言い分は

「すでに於義丸様が関白の養子になっており、徳川家と豊臣家は親戚。親戚に家臣なみの扱いはご無用」

というものでした。

特に戦バカの本多忠勝や榊原康政は

「秀吉が攻めてきたところで小牧・長久手の二の舞になるだけじゃ」

とほざき、秀吉と戦っても負ける気がしないという気負いでした。

これに対し、徳川家No.2であった石川数正は、武闘派とは真逆の「秀吉との融和」を家康に進言しました。
数正は豊臣家の勢力や権力の大きさを肌で感じることになり、朝廷が「公」と認めた豊臣家と徳川家が再び戦うようなことになれば、間違いなく徳川家は滅ぶと数正は確信していました。

ここで徳川家の家臣団は武闘派と融和派にまっぷたつに割れました。
融和派の筆頭である数正は、岡崎城代でありながら、武闘派の厳しい監視がつけられ、客の往来まで厳しくチェックされていました。時には暗殺の危険もあったくらいです。

一方の数正は、今回の秀吉の人質要求は、かなりの無理があることはわかっていました。わかっていましたが、これを露骨に蹴れば、確実に戦いになります。

畿内、中国、四国、北陸、越後を完全に抑え、なおかつ朝廷の権威まで味方にしている秀吉と争うことは、徳川家にとって「百害あって一利なし」でした。

それゆえに、数正は、なんとしても戦いだけは避けなくてはなりませんでした。

しかし、数正の意見は、徳川家の家中の納得が得られませんでした。

数正は悩んで悩んで悩みまくった結果、この件を解決にするには(徳川家をこの世に残すには)「秀吉と戦ったら負ける」ということを家中の武闘派に思い知らせることしかないと考えつきました。

その方法が、自分自身の徳川家の出奔でした。

西暦1585年(天正十三年)11月13日 石川数正 徳川家を出奔

数正は徳川家No.2の次席家老であり、徳川家の機密を知り尽くしています。それが機密を抱えたまま、徳川家を出奔し、秀吉の臣下になるということは、徳川家の機密がまるごと秀吉に知れ渡ったことになります。

現代風に言えば、自社の専務取締役がライバル会社の社長にヘッドハンティングされて、自社の機密や商品開発のノウハウや営業戦略などがダダ漏れになるという感じですね。

これがどういうことかと言うと
・徳川家の家臣団構成
・徳川家の兵力、兵法
・居城浜松城の秘密
・徳川領国の弱点

などが、ぜーんぶ、秀吉に知られてしまうということです。

当然、数正の出奔は、徳川家を上へ下への大騒ぎになりました。
家康は、浜松城の模様替え、領国の海岸線、国境の防備強化、徳川家の軍制を三河流から武田流に改めるなど、数正の出奔で生じた「徳川家の弱点」に対して次々と手をうっていきます。
(ここで甲州征伐の際に召し抱えた武田遺臣たちが大きな功績を果たすことになります)

そして、徳川家中の武闘派の連中は気付きます。

「こんな状況で、秀吉と戦ったら確実に負ける。」

これに対抗するため、徳川家は関東の北条氏との同盟を強め、秀吉をけん制するという方策をとることになります。
これこそが数正が望んだ結果であったと私は思います。

徳川の東海五カ国、北条の関東八カ国が地続きで秀吉に対抗する形が整った以上、秀吉としても強硬な策には出にくくなりました。結果として、秀吉は家康を潰すのではなく、懐柔する方向に方針を切り替えます。

それは徳川を臣従させないと、あぶなくて大坂を留守にできない(九州征伐が行えない)からでした。

西暦1586年(天正十四年)5月14日、秀吉は妹・朝日姫を徳川家に輿入れさせ、家康と義兄弟になると、同年9月には秀吉の母・大政所が浜松に遣わされました。

秀吉は家康を上洛させるためには、もうなりふりかまってられませんでした。

同年10月24日、家康はとうとう根負けし、上洛するべく、浜松を出発。3日後、大坂城で秀吉と対面しました。

ここに数正の望み(徳川と豊臣の安泰)が完全にかなった形になりました。


2、その後の石川数正とその血統

徳川家出奔後の石川数正は、秀吉の客分となり、秀吉の弟で権大納言であった羽柴秀長の領地の中から、河内国八万石を宛てがわれました。

西暦1590年(天正十八年)の秀吉の小田原征伐(後北条氏の滅亡)完了後、信濃国松本(長野県松本市)十万石に加増転封されます。現在、長野県松本市に残る国宝「松本城」の天守は、数正の時代に建設が始まったと言われております。

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(国宝松本城の天守閣 from Wikipedia)

数正は信濃松本十万石の大名として、西暦1593年(文禄二年)六十歳で病死します。

家督は嫡男の康長が松本城主となって八万石で継承し、次男・康勝が安曇郡北部(長野県北安曇郡全域および安曇野市、大町市全域と松本市の一部)一万五千石三男・康次が信濃国内に五千石に分け与えられました。

しかし、数正亡き後の息子たちの人生は不遇の時代でした。

康長は、西暦1600年(慶長五年)関ヶ原の戦いでは家康に味方し、徳川秀忠に従軍して真田昌幸と戦って大敗したものの、所領は安堵されました。

ところが西暦1613年(慶長十八年)徳川幕府の代官頭である大久保長安が不正蓄財を行っていた事件で、康長の娘が大久保長安の嫡男・大久保藤十郎に嫁いでいた関係で、連座の罪を受け、弟の康勝、康次ともども領地没収の上、豊後国佐伯(大分県佐伯市)に流されてしまいます。

康長はそのまま配流先の佐伯で、西暦1642年(寛永十九年)12月11日、死去しました。
当時としては八十八歳という長命だったと伝わっています。

次男・泰勝は、西暦1615年(慶長二十年)の大坂夏の陣において戦死しました。三男・康次の動向はよくわかっていません。

石川数正が徳川家を出奔した確たる理由はわかっていません。
わかっていませんが、数正亡き後の息子たちの末路は、悲惨なものであったことは確かです。
これが、家康の仕打ちだったのかどうかも今となってはわかっていません。
posted by さんたま at 16:07| Comment(0) | 真田丸解体新書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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