2016年04月17日

真田丸解体新書(6)徳川家のネゴシエイター・石川数正(前編)

先週の「真田丸」では、徳川家家臣の石川数正が、徳川家を離れ、豊臣家の家臣に鞍替えする事件が描かれました。ドラマでは真田昌幸の弟・真田信尹の策謀に引っかかった形になっていますが、本当のところはよくわかっていません。

今回はその石川数正にスポットを当ててみたいと思います。

1、石川氏について
石川氏は、多くの源氏の中でも嫡流と言われる「河内源氏」のトップにして、「八幡太郎」と呼ばれた源義家の六男・源義時が、河内源氏の本拠地であった河内国石川郡石川荘(大阪府羽曳野市付近)を相続したことに始まる一族・「石川源氏」の末裔であると言われています。

義時の子・源義基から石川氏を名乗り、源頼朝を助けて鎌倉幕府の創設に協力しました。その後は鎌倉幕府の御家人として活躍したと言われていますが、元弘の変(鎌倉幕府滅亡)の際に没落して下野国の小山氏を頼り、その後、浄土真宗(一向宗)の蓮如に連れられ、三河国の住人になったと言われております。

室町時代中期に三河に土着した石川氏当主・石川政康は、三河国の「国衆」である松平家(後の徳川家)に仕え、松平最古参譜代(安祥譜代)の一家として記録が残っていることから、数正の時代には石川家は松平家重代の重臣となっていたようです。
ただ、石川数正本人は、石川氏の嫡流ではなく、分家の出身(本家当主・石川家成が数正の叔父にあたる)でした。


2、石川数正の履歴書
石川数正は幼名を助四郎といい、松平家当主・松平広忠の子・竹千代(後の徳川家康)の側近として仕え、竹千代の人質時代(織田/今川)にも付き従うことになります。

しかし、西暦1560年(永禄三年)5月19日、今川家当主の今川義元が桶狭間の戦いで戦死すると、竹千代改め松平元康は、松平家の本拠である三河国岡崎城を奪取して独立しました。

元康の妻子は今川氏に人質として残されていたため、元康の活動は、建前としてお隣の尾張国(織田氏)への牽制という体裁をとりつつ、三河国内の今川氏武将を個別に攻撃し、三河国内の独自支配を強めていきました。

亡き今川義元の子にして今川家当主・今川氏真は、そんな元康の勝手な行動を容認するはずもなく、元康を牽制するため、元康の妻子を除く松平家の人質を全員殺害してしまいます。
この一件が、元康の心を完全に一気に「今川離反」に向かわせました。

ですが、西を尾張国(愛知県西部)の織田家、東を駿河・遠江(静岡県)の今川家に挟まれている弱小大名の松平家に、今川氏と渡り合える力は到底ありませんでした。

そこで元康は、尾張の織田氏との同盟を考えるようになり、側近であった石川数正を織田氏との交渉を命じました。元康は織田家の人質だった時代に今の織田家当主となった織田信長と親交がありましたが、織田家と松平家ん間は元康の祖父・清康の時代から戦いを繰り返していた犬猿の仲で、交渉はひと筋縄では行きませんでした。

しかし、織田家も北に美濃国(岐阜県)斎藤家という大きな敵を抱えている事情から、互いの背後を守り合うという両者の利害関係が一致しました。

西暦1562年(永禄五年)1月、石川数正は織田家との同盟(清洲同盟)をまとめることに成功しました。
これが、石川数正の松平家家臣としての初めての功績になるようです。

その翌月、元康は亡き今川義元の甥で、三河国上ノ郷城(愛知県蒲郡市神ノ郷町)の城主・鵜殿長照を攻撃して殺害し、長照の妻子を捕縛しました。

元康は、また数正を召し出して、

「おまえ、今川氏真の元に行って、鵜殿長照の妻子と、自分の妻子の人質交換を成功させてこい」

と命じたのです。
これは、難航する織田家との交渉を見事にまとめあげた、数正の交渉力を買ってのことでした。
そして、数正は元康の期待に応え、今川氏真を説き伏せて、見事、家康の妻子を取り戻すことに成功したのです。

西暦1563年(永禄六年)、元康は名を家康と改名し、数正は松平家家老に就任しました。
酒井忠世、石川家成(石川家当主・数正の叔父)に次ぐ松平家第三の席次になります。
石川家の分家の出身でありながら、この出世は異例中の異例といえるものでした。

西暦1566年(永禄九年)家康は朝廷より従五位下三河守に任じられ、これを機に「松平」から「徳川」に改姓。

西暦1569年(永禄十二年)、数正の叔父で石川家当主であり、松平家家老ナンバー2だった石川家成が、遠江国掛川城(静岡県掛川市掛川)の城主に転出すると、家成は自分が務めていた「西三河の先手旗本侍大将(三河国西部地域の総大将)」の地位を数正に譲りました。この後の数正は内政面だけでなく軍事面でも力を発揮していくことになります。

西暦1579年(天正三年)、家康の嫡男・徳川信康が武田氏との内通の疑いをかけられたため、家康の命令で岡崎城代となります。この時点で名実ともに筆頭家老だった酒井忠次と同等に並んでいました。


3、謎の出奔
西暦1582年(天正十年)6月、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれました。

泉州堺から伊賀を越えて三河に戻ってきた家康は、信長の弔い合戦に向かおうとしましたが、はやる家康を踏み止まらせ、甲斐、信濃攻略に向かわせたのは数正だと言われています。

結果として家康は、信長の死によって主を失い、政情不安定な甲斐、信濃の支配を確立させ、従来の三河、遠江、駿河と合わせて東海地方五カ国の太守として無視できない勢力を築くことに成功します。

当時に家康は自身をあくまでも「織田家の同盟者」に位置付け、「織田家の後継者を擁しながら天下平定を目指す」羽柴秀吉とは衝突はしないが屈服もしないというスタンスで一定の距離を続けました。その間、徳川家のネゴシエイターとして大坂城(羽柴家)へ赴いていたのが石川数正でした。

数正は、家康と秀吉の間で戦がおきないように、あの手この手を使って両者間を取り持ちましたが、 西暦1584年(天正十二年)3月6日、織田信長の次男にして尾張国主・織田信雄がトチ狂って自分の重臣を殺害するというアホなことをやらかしたせいで、秀吉に信雄攻撃の口実を与えてしまいました。

家康は「織田家の同盟者」という立場上、信長の遺児である信雄に味方しなければなりません。戦いを避けようと努力してきた数正のこれまでの苦労は一気に無駄になってしまいました。これが、世に言う「小牧・長久手の戦い」です。

この戦いは結局引き分けに終わりましたが、この戦いの翌年、西暦1585年(天正十三年)11月13日、事件は起こります。

岡崎城代石川数正、突如、妻子一族郎等を連れ、徳川家を出奔。

この出奔劇にはいろんな説がありますが、いまだに定説を見ません。そのため、「真田丸」では「真田信尹が唆した」という設定になっていました。

ですが、自分なり諸説を考慮し「たぶん、こういうことだったんじゃないかなぁ」という考えを次の更新で述べようと思います。

(つづく)
posted by さんたま at 15:41| Comment(0) | 真田丸解体新書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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