2016年04月13日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(33)-千葉氏の決断-

西暦1180年(治承四年)8月28日、箱根権現別当・行実永実の手により船を手に入れた源頼朝一行は、相模国真鶴岬(神奈川県足柄下郡真鶴町)から安房国(千葉県南房総市)に向けて出発しました。

なお、この時、頼朝は、土肥実平の嫡男・土肥遠平を、走湯山で保護されている妻・政子への使者として立て、自らの無事を報告させていました。

翌8月29日、頼朝一行は安房国平北郡猟島(千葉県安房郡鋸南町)に上陸し、当面の敵である大庭景親の手からはひとまず逃れることに成功します。そして頼朝にとって幸運だったのは、ここには頼朝が伊豆の流人になった当初、よく頼朝の面倒を見ていた、在地領主・安西氏の当主安西景益が拠点を構えていたことでした。

9月に入り、頼朝は安西氏の力を借りながら、再起への準備を始めます。

まず、側近の安達盛長を、下総国(千葉県北部)の千葉胤頼に遣わし、千葉氏への助力を請いました。
千葉胤頼は、京都大番役中に以仁王の挙兵に出くわし、石橋山の戦いの数ヶ月前に頼朝と北条時政を訪ねてその一部始終と、大庭景親の帰国をいち早く知らせた武将でした。

彼の父は千葉常胤といい、坂東八平氏(関東地方に土着した桓武平氏八家)の1つで、下総国千葉郡一帯を支配し「下総権介」という役職を世襲する下総国の有力武将だったのです。

そして、同じ頃、居城である相模衣笠城(神奈川県横須賀市衣笠町)を失って族滅の危機に陥っていた相模三浦氏の三浦義澄ら三浦一族が頼朝と合流しました。この三浦義澄は、前述の千葉胤頼と共に京都大番役の帰路、頼朝と時政に頼朝の危機を知らせた武将でした。

つまり三浦義澄と千葉胤頼は、頼朝が挙兵するキッカケを作った、頼朝にとっては恩人とも呼べる存在だったのです。あの時頼朝が山木兼隆を討つべく挙兵していなかったら、頼朝が歴史の表舞台に上ることはなかったでしょう。

また、三浦義澄の父・三浦義明は、頼朝が箱根権現で静養中には平家方の武将・畠山重忠、河越重頼、江戸重長らに居城である衣笠城を攻められ、城を枕に討ち死にしました。

本来であれば、頼朝は三浦氏と合力して大庭景親ら平家方の武将を相模国から一掃し、源氏の再興を華々しくブチあげるつもりでしたが、大雨で三浦氏の合力が間に合わず、頼朝は独力の300騎のみで3000騎の大庭軍と石橋山で戦わなければならなくなり、大敗を喫しました。その影響で三浦氏も平家方武将の猛攻を浴び、一族が滅びる寸前まで追い詰められていたのでした。

頼朝は、三浦一族の和田義盛(早世した三浦義明の長子・杉本義宗の子)に、上総国(千葉県南部)の有力武将である上総広常の助力を得るように命じました。

要するに、頼朝は上総国、下総国の二大有力武将に助力を請い、その兵力を以て、再び反平氏の挙兵を行う考えでいたのです。

頼朝の命を受けた安達盛長が、旧知の間柄である千葉胤頼と再会すると、まず、胤頼の兄であり、千葉氏の嫡男である千葉胤正を説得して味方につけることに成功します。そして、胤正、胤頼の両名の仲介により安達盛長が千葉氏当主・千葉常胤と面会することができ、主・頼朝の言葉を伝えました。

盛長から全てを聞いた常胤は
「自分の気持ちは既に決まっている、が、上総介(上総広常、常胤にとっては従兄弟にあたる)にも相談して決めたいと思う」
と一旦保留にしようとしました。

(いかん、ここで時間を引き伸ばされてはかなわん)

と思った盛長は、全く動じることなく

「恐れながら、我が主・右兵衛佐におかれましては、既に上総介殿にも三浦一族の和田小太郎(義盛)殿を差し向け、合力の内諾取り付けておりまする」


と答えたため、常胤も迷いが完全になくなりました。

この時、盛長が言った「上総広常が合力する」と言う話は盛長のでっち上げでしたが、頼朝の再起には上総、千葉の合力が必須だと考えていた盛長に取って「広常が合力しない」という未来は考えられませんでした。

そしてそこで動じることなく堂々と常胤とわたりあったことが、常胤の信頼の獲得につながったことは言うまでもありません。

胤頼は父・常胤に対し、

「我が一族が佐殿に御味方仕るとなれば、その証が必要でござりましょう」

と言い、頼朝が当時の伊豆国目代だった山木兼隆を討った例に倣い、下総国府を襲撃することを提案します。

常胤は「下総権介」(下総国の二等官代理。現在の県副知事代理のようなもの)という朝廷の官位を持つ下総国の在庁官人(いわゆる地方公務員)であり、国府を襲うことは自らの権力の拠り所である「下総権介」を否定する行為になります。

しかし、在庁官人とはいえ、時は平氏政権の真っ只中。千葉氏も同じ平氏の流れで、平良文を祖先として関東に根付いた武家平氏・坂東八平氏の一族です。しかし、時の権力者である平清盛ら伊勢平氏はその坂東平氏の庶流に当たり、心は穏やかなものではありませんでした。

しかし、現実として平氏政権の影響は関東にも及びつつあり、千葉氏はじわじわとその勢力に陰りが差していたのです。

常胤は「下総権介」という地位を投げ打ってでも、源氏再興にかけることを決意します。

西暦1890年(治承四年)9月13日、千葉常胤は、嫡孫・千葉成胤(嫡男・胤正の子で、胤頼の甥)を総大将、六男・千葉胤頼を後見人として、下総国府を襲撃しました。

これに怒ったのが当時、下総国をほぼ手中に収め、平家方武将を統率していた藤原親政でした。
国府陥落を聞いた親政は、すぐさま手勢1000騎を率いて千葉氏の本拠・千葉荘(千葉市中央区)に攻め入りましたが、逆に千葉成胤に捕縛されてしまいます。

ここに千葉氏は反平氏の旗を明確に掲げました。
そして下総の平家方武将の総帥である藤原親政が千葉氏に捕らわれたことは、東国武士の間には衝撃が走り、これまで微妙なバランスが保たれていた平氏の武家勢力に揺らぎを生じさせたことは間違いありませんでした。

(つづく)
posted by さんたま at 19:54| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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