2016年03月21日

真田丸解体新書(4)後北条氏初代・伊勢盛時について(後編)

前回に引き続き、後北条氏の祖・伊勢盛時(北条早雲)についての説明を続けます。

今川家の御家騒動を収束させ、駿河国興国寺城を得た盛時は、今川家の顧問として、駿河国守護代のような立場で今川家当主の今川氏親の治世を支えながら、室町幕府奉公衆としての勤めもこなす二重生活を続けていましたが、ついに彼の運命を大きく変える出来事が起きることになります。

西暦1491年(延徳三年)4月3日、室町幕府の伊豆出張所であり、堀越公方として伊豆一国を支配していた足利政知が病没したのです。


1、堀越公方とは?
室町幕府は、初代将軍の足利尊氏の時代より、関東に対する抑えとして鎌倉府を設立しました。そして西暦1349年(貞和5年)、鎌倉公方(長官)として、尊氏の次男である足利基氏が着任しました。

しかしながら、鎌倉公方二代目の足利氏満の時代から幕府と対立関係が始まり、五代目の足利持氏の代に「永享の乱」と呼ばれる武力闘争に発展。西暦1439年(永享十一年)ついに鎌倉府は幕府によって滅亡に追い込まれました。

それから10年後、西暦1449年(宝徳元年)に幕府に攻められて自害した足利持氏の遺児・足利成氏が幕府よって取り立てられ、鎌倉府が再興。その後、成氏は部下の関東管領上杉氏と対立し、さらに駿河守護・今川範忠に鎌倉を落とされたため、西暦1454年(享徳三年)下総国古河(茨城県古河市)に拠点を移します。

成氏を見限った幕府は、西暦1458年(長享二年)、室町幕府八代将軍足利義政の異母兄・足利政知を「代わりの鎌倉公方」として鎌倉に送り込みましたが、成氏の勢力に圧倒されて鎌倉へは入れず、伊豆国堀越(静岡県伊豆の国市)に一時逗留せざるえませんでした。これが「堀越公方」の始まりです。

幕府は過去の鎌倉府の経緯から、政知に軍事指揮権を与えませんでした。その結果、独力の兵を持たない政知は堀越から動くことができなかった上、京都で幕府内部での権力武力闘争(応仁の乱)が勃発したため、幕府は政知に構う余裕がなくなっていました。そして政知は西暦1491年(延徳三年)に伊豆一国の領主のまま病死します。


2.奪われた堀越公方と盛時への密命
政知の嫡男は茶々丸という者でしたが、素行不良のために廃嫡され、土牢に幽閉されていました。
次男の清晃は将軍義政によって仏門に入れられたため、三男の潤童子が後継となる予定でした。
しかし、茶々丸が牢を脱獄して潤童子とその生母を殺害するというクーデターを起こし、堀越公方の地位を乗っ取ったのです。
茶々丸は政知時代の旧臣を奸計を用いて殺害し、伊豆国内に治安の乱れを引き起こしつつありました。

一方、幕府でも西暦1493年(明応二年)、幕府管領・細川政元らが室町幕府十一代将軍・足利義材を追放し、仏門に入っていた亡き政知の次男・清晃を還俗させて、室町幕府十二代将軍・足利義澄として擁立したクーデター(明応の政変)が勃発していました。

図らずも幕府権力を有した清晃こと義澄は、自分の弟潤童子を殺害して堀越公方を我が物としている茶々丸を許すことができませんでした。義澄と潤童子は同母兄弟でしたが、茶々丸は異母兄だったこともあったと思います。

また幕府としても堀越公方はもちろん、伊豆国の政情不安は関東への幕府権力の弱体化に他ならなかったため、奉公衆であり、なおかつ伊豆に近い駿河に城を持つ盛時に、逆賊・茶々丸の討伐を命じることになります。


3、盛時、一国一城の主に
幕府より密命を受けた盛時は早速駿河国に下向し、駿河守護で自分の甥である今川氏親に兵を借りると、伊豆国の情勢の把握に努めました。

盛時は将軍義澄からの茶々丸追討令を旗印に使い、伊豆国の有力国衆を味方に引き込むと、スキをついて一気に堀越御所を急襲しました。茶々丸は一部の国衆の支持を受けながらじりじりと後退し、最終的には伊豆国から追放されました。

この結果、盛時は伊豆一国を完全に手中に収め、居城を伊豆国内の韮山城(静岡県伊豆の国市)に移し、一国一城の大名として君臨することになります。ここに大名としての後北条氏が誕生したのです。

盛時は、民心の安定を第一とし、年貢を四公六民としました。この制度は後北条氏の治世を通して一貫して貫かれる治世方針となりました。この2年後の西暦1495年(明応四年)、盛時は出家し「早雲庵宗瑞」を名乗っています。

盛時はこの後も積極的な精力拡大に努め、西暦1501年(文亀元年)までには小田原城の大森氏を滅ぼし、西暦1516年(永正十三年)には三浦氏を滅ぼして相模国を平定。これより、この後五代に渡る後北条氏の基礎を確立します。

ただ、これらの軍事活動も常に室町幕府の幕府権力と連携しており、ただの領土的野心によるものとは性格が異なるようです。同時に今川家の顧問としての活動も継続的に行なっており、それは嫡男氏綱の時代まで続きました。

西暦1518年(永正十五年)、家督を嫡男氏綱に譲り、隠居した後、翌年に死去。
死ぬまで自分が初めて攻め取った韮山城を居城とし、そして北条を名乗らず伊勢の姓のまま死んだと言われます。


4、その後の北条氏
盛時亡き後の北条氏は、伊豆・相模を中心に大規模な精力拡大を行います。

二代:氏綱
本城を韮山城から小田原城へ移転。
「伊勢」から「北条」に改姓。
後北条氏としては初めて左京大夫に任官。
下総、武蔵、駿河の一部を領土化し、今川家より完全に独立。

三代:氏康
武蔵、上野を領国化し、伊豆、相模と合わせ、四カ国を領す。
甲斐武田、駿河今川と三国同盟を締結。相模守に任官する。

四代:氏政
下総、上総を領国化し、伊豆、相模、武蔵、上野を合わせ六カ国を領す。
さらに駿河東部、常陸の一部、下野の一部も支配し、後北条氏最大版図を築く。

こうして関東最大の大大名になった北条氏がどうなっていくのか。
それはドラマを見ていただきましょう。
posted by さんたま at 15:10| Comment(0) | 真田丸解体新書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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