2016年03月08日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(30)-箱根権現の導き-

西暦1180年(治承四年)8月23日、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)近くで行われた「石橋山の合戦」は、源氏の御大将・源頼朝軍の大敗で終わりました。頼朝軍は来るべき再起の日を信じて軍を解散、頼朝自身は地元の領主である土肥実平以下土肥一族とともに落ち延びました。

頼朝一行は、石橋山の隣の椙山の下山途中、大庭景親の追っ手をかわすため、洞窟に逃げましたが、その洞窟を平家方武将・梶原景時に発見され、絶体絶命に陥りました。しかし、この梶原景時が頼朝を見逃したため、頼朝は九死に一生を得ることができたのです。

景時の機転の結果、命を取り留めた頼朝一行は、無事に椙山を下山し、土肥実平の影響下にある土肥郷(神奈川県湯河原町)へ足を速めました。その途中のことです。

「すみません。少々ものをお尋ねいたします」

と僧職の身なりをした者が頼朝一行に尋ねてきました。
頼朝一行は無視して足を速めると、僧はさらに

「この先で戦があったとお聞きしているのですが、どのような状況なのでしょうか?」

と逃げさる頼朝一行に重ねて尋ねてきました。

「お坊さまぁ、それを聞いてどうされるんだ?」

皆が早足で逃げさる中、土肥一族の下郎である七郎丸が道に立ち止まって僧の問いに応じました。

「はい。私は箱根権現の者で、主から戦の様子を見てまいれと言われまして......」

と僧がそこまで答えた時

「七郎丸、余計な口を利くでない」

僧の問いに答えていた七郎丸を土屋実重(土肥実平次男)が窘めに道を戻ってきていました。

「しかし荒次郎(実重)様ぁ、この坊様、箱根権現の使いの人らしいだ。」

「なに?権現様の?」

合戦の舞台となった石橋山は現在の神奈川県小田原市にあります。この近くには箱根山箱根神社が存在し、特に箱根神社は、箱根権現または箱根三所権現と呼ばれ、西暦757年(天平宝字元年)に創建され、地元の崇敬を集める由緒ある古い神様でした。もともとは神社ではありますが、平安仏教(密教)の影響で金剛王院東福寺が設立され、それ以後、箱根山を中心に多くの修験者が入峰し、関東における修験通の霊場となっていたのです。

土肥郷出身である実重にとって、箱根権現は地元の守り神として崇敬を集めていることはもちろん知っていました。
実重は七郎丸に向けていた体を僧に向き直り

「わしは土肥郷領主・土肥次郎の次男、荒次郎じゃ」

と自分の身分を名乗ると、僧はびっくりして

「これは......土肥家の方とは知らず、とんだご無礼を」

と頭を下げ

「私は箱根権現別当行実の弟で、永実と申します。兄の命で戦の様子を見てこいと言われまして」

「して、何用で戦さ場に参られるのじゃ?」

「はい。権現社の方で合戦は源氏の御大将の負けとう風聞が届き、兄・永実は以前より源氏の御大将とは昵懇の間柄、もし討ち死にされていたら、ぜひとも供養したいと申しまして......」

「しばし、待たれよ」

話を聞いた実重は、すぐに隊列にとって返し、頼朝の耳に入れると、周囲が制止するのも構わず、一目散に永実の元に駆け寄りました。そのあまりの勢いは永実の方がビクつくほどに圧倒されていました。頼朝は永実の手を取ると涙して「ありがたい、ありがたい」と声をあげて泣いていました。

箱根権現別当の職にある永実の兄・行実は、頼朝が伊豆に流されてきてから、何かと気にかけておりました。それは、行実と永実の父・良尊が、かつて頼朝の祖父(判官為義)父(播磨守義朝)から大恩を受けた身であり、その嫡男である頼朝にいくばくかの力になりたいという気持ちの表れでした。

そして、今、行実は、源氏の大敗を聞いて、頼朝の弔いをしようと弟を戦場に遣わしていたのでした。

「あの......」

いきなり駆けつけてきた武士に手を取られた永実だけが意味がわからず、喉を振り絞ってようやく出た声でした。

「お控えられよ。源氏の御大将・右兵衛佐殿じゃ」

と後から追いかけてきた土肥実平がそう言うと、永実はまたまた驚いて

「ははーっ」

と地べたに手をつき、頭を垂れました。

「よくぞ、この頼朝を探してこられたの......よくぞこの.....」

頼朝も涙で声が声にならず、嗚咽だけを上げるのみでした。
しかし永実の方はいたって冷静でした。

「恐れながら申し上げます。御大将の生死を確かめるのが私の役目でございましたが、御大将がご存命となれば話は別です。急ぎ私についてきてください。兄の下にご案内申し上げます」

永実は地に手をついたまま、頭のみを上げて頼朝に言上しました。

「しかし......」

頼朝は実平を見上げて意見を求めましたが、実平も頷きながら

「ここは永実殿に従いましょう。箱根権現であれば、大庭も簡単には手出しができませぬ」

と了解の意思を明らかにしました。

かくして、頼朝一行は箱根権現別当行実の弟・永実に連れられ、箱根権現に一時避難することになりました。
とりあえず一息つける場所を確保できた頼朝一行ですが、この先どうなるのかの安心感などはあるはずもなく、依然として未来にはイバラの道しか残されていませんでした。
(つづく)
posted by さんたま at 11:11| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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