2016年02月21日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(29)-頼朝、絶体絶命-

西暦1180年(治承四年)8月23日、源頼朝約300騎平家方武将・大庭景親ら3000騎は、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)近くの石橋山で合戦となりましたが、頼朝軍は劣勢となって大敗しました。翌24日未明、頼朝の身辺警護は土肥郷領主である土肥一族が勤め、各武将はそれぞれ四散し、いずれ再起の時を待つという決定が下されました。

本陣から離れたところで休んでいた北条時政は、次男義時と共に、甲斐源氏の武田信義を味方につけるべく甲斐の国に向かいます。嫡男宗時は時政から北条庄、一族郎党を託されますが、あと一歩というところで、伊豆国伊東庄の領主・伊東祐親の手にかかって討ち死にしました。

一方、頼朝軍を石橋山後方の椙山に追い詰めた大庭景親ですが、物見の報告から頼朝軍の武将が四方八方に散っていく様を知り、頼朝軍の総崩れを推測します。

「右兵衞佐殿(頼朝)の軍勢は総崩れだ。本陣に攻めかかれ!佐殿の身柄を探せ!」

平家方総大将・大庭景親は全軍進軍の下知を与え、椙山の本陣を襲いますが、攻め込んだ本陣には一人の武士の姿もありませんでした。

「まだそう遠くには行っていないはずだ。探し出せ!」

景親は自らも馬をおり、率先して山の中を分け入って頼朝の捜索にあたりました。


一方で、頼朝の身は、土肥実平(相模国土肥郷領主)、土肥遠平(実平嫡男)、土肥実重(実平次男)、土屋宗遠(実平弟)、岡崎義実(実平妹婿)ら土肥一族と頼朝側近・安達盛長を加えた六将と、土肥郷から駆けつけた実平の家人(七郎丸と記録にはあります)に守られ、椙山を下って土肥郷に落ちて行く途中でした。

しかし、その下山の道も大庭軍に封鎖されており、やむなく、人気のない洞窟に入って追跡の手をやり過ごすことにしました。頼朝と六将が全員洞窟に入ると、実平の命令で七郎丸が倒木をもってきて、洞窟の入り口を封じました。

「これで、とりあえずは大丈夫だな」

「佐殿、少々手狭ですが、しばし辛抱してくだされ。ここを乗り切れば私の領地まですぐでございます」
実平と宗遠は頼朝の前にかしずくと頭を垂れ、すぐに脇に控えました。

(兄者、本当にこれで大丈夫のか?)

宗遠が実平の耳元で不安をささやくと

(他にどんな手があると言うのだ。やれることをやるしかないのだ、やるしか。気をしっかり持たんかい!)

実平は鎧の胴を小突いて弱気な弟に喝を入れました。


一方、大庭景親の手による捜索は杉山の中腹から二隊に分けて行われていました。
一隊は山の上へ、もう一隊は山の下の下山口へ。
景親は俣野景久らを山の上の捜索に、景親自身は梶原景時らを引き連れて下山口へ向かっていました。

洞窟の中にいる頼朝一行は、遠くから少しずつ近づいてくる人の声に神経を研ぎ澄ましました。

(きたな。。。)

実平は土肥遠平、土肥実重の二人の息子に目で合図を送り、洞窟の入り口の両脇に着座させました。洞窟に入ってくる敵を両脇から刺し殺し、そのまま外に討って出て敵を引きつけ、その隙に頼朝らを逃すという実平の苦肉の策でした。

最初に倒木で塞がれた洞窟に気づいたのは平家方の武将で相模国鎌倉郡梶原郷の領主・梶原景時でした。
それは目隠し用に設置した大木が自然にできたとは思えないくらい、どう見ても不自然な形だったからです。

(明らかに妙だ......)

景時は用心しながらじわじわと洞窟に近づきました。
草をかき分ける「ザッザッザッ」という音が近づくにつれ、洞窟内の遠平と実重は、ゆっくり太刀を抜いて下段に構えて待ち受けました。

それから数歩歩みを深めたところで、景時はピタッと動きを止めました。

「何者じゃ.....」

景時の首には太刀の刃が添えられていました。そしてその太刀を当てていたのは、石橋山の戦いで大庭景親の急襲を頼朝に伝え、頼朝軍の危機を救ったあの飯田家義だったのです。

頼朝軍は土肥実平の作戦通り、次のチャンスに向けて生き残るために散り散りになりましたが、大庭景親を裏切った家義に帰るところはなく、頼朝と一定の距離を保っていたところ、洞窟に避難する姿をみかけ、遠巻きに警護していたのでした。

「梶原殿、御身が大事ならこのまま何も見ずに立ち去られよ」

家義は刀を景時の首筋に当てながら、景時を諭すように言いました。

「おまえ、飯田五郎(家義)か?大庭殿の身内の者がなぜこのような?」
景時は声色で自分を脅しているのが飯田家義と見抜いていました。

「私は望んで大庭殿に組したのではない。止む無く従軍したにすぎん。」

「そうかお主の心の主は佐殿であったのか.....」

そう言った景時は後ろに軽くに飛んで、次にしゃがんで、家義の刃を交わし、自分の兜で家義に頭突きを食らわして怯ませると、足を払って身体を倒し、胴を足蹴にして動けなくしてしまいました。

「お主のおかげで佐殿の隠れ場所がわかった。礼を申す」

そう言った景時は太刀を抜いて、その柄で家義の兜に一撃を食らわすと、家義は気絶してしまいました。
景時は家義から離れ、再び洞窟への歩みを進めていきます。

景時が倒木の前まで進み、中を伺うと太刀を構えている若武者二人を発見したので

「待たれよ。そのまま、そのまま」

と手を前に出して小声で制止しました。
遠平と実重は父である実平に伺いをたてる目を向けますが、実平も

「待て」

の合図を出して二人を制止しました。

「そこにおられるのは、右兵衞佐殿か?」

景時は洞窟の中に入らず、倒木越しに声をかけました。
頼朝は観念してゆっくりうなづきました。

「私は相模国鎌倉郡梶原郷の梶原平三と申すもの。今は時間がございませぬ。私が捜索の手をこちらに向けさせぬゆえ、隙を見計らってお逃げなされ」

景時はそれだけ言って、洞窟の前から去ろうとしたが、

「待たれよ。そなたはなぜ我らを助ける」

洞窟の中から土肥実平が尋ねました。

「いずれお話できる時も参りましょう。いまはまずこの危機を脱することだけをお考え下され」

景時はそう言って、今度こそ洞窟の前を離れました。
離れる途中、気絶している飯田家義を目覚めさせると

「飯田五郎、私についてこい。」

と引き立ててて、本隊に合流しようとしましたが、そこに大庭景親の一隊が北方の捜索を終えて、ゆっくりこっちに歩いてきていました。

(まずい。。。)

景時は何事もなかったかのようにふるまって

「やぁ、三郎(景親)殿、佐殿は見つかりましたかな?」

と陽気に話しかけると

「おう、平三(景時)殿か。いや、ひとっこ一人おらぬわ。そなたの方はどうじゃ?」

「こちらもあいにくと成果なしでして。。。」

景時は苦笑いをしながら溜息をつきました。
すると景親が、平三の向こう側に大木で塞がれた洞窟らしきものを見つけました。

「ん?あの妙な木で塞がれてる洞窟はなんじゃ?」

「ああ、あれですか、私も怪しいと思って調べたのですが、中にいたのはこやつのみでしてな」

とさっき強引に目覚めさせた飯田家義を引きずり出すように景親の前に出しました。
突然主人の目の前に、引きずり出されたのと、気絶から目覚めたばかりで意識が朦朧としてしている家義は、状況がよく飲み込めていませんでした。

景親はしゃがんで景時が目の前に引きずり出した者の顔を確認すると

「んー?おまえ、飯田五郎ではないか!こんなところで何をしておったのだ。」
「あ、大庭殿......」

とようやく我に帰った家義でしたが、主人である景親に弁明できるわけもありません。
しかし代わって景時が

「こやつ、一人であの洞窟の中を探りに行ったところまでは良かったのですが、岩に足を取られて抜けられなくなっていたようで、助けを求める声をあげていたので、たまたま通りかかった私が助け出した次第です」

と弁明したことで、景親も納得し

「そうであったか。平三殿、我が家の子が面倒をかけた。すまぬ」

と景親に一礼して、一族の者の非礼を詫びると

「いやいや、我が梶原は大庭殿と同族でござれば、遠慮は無用でござる」

梶原氏は、河内源氏二代目の棟梁だった源頼義(陸奥守、鎮守府将軍、源義家<八幡太郎>の父)の配下であった鎌倉景道の子・鎌倉景久が相模国鎌倉郡梶原郷に土着して出来た家です。

一方、大庭氏は、前述の鎌倉景道の弟である景成の子・鎌倉景正が相模国大庭御厨を開拓し、出来た家です。

つまり大庭氏と梶原氏は鎌倉氏を発祥とする同族ということなります。
しかし鎌倉氏は源氏の家人でしたが、去る平治の乱以降、世を生き抜くために共に平家に与しておりました。

「さて、こんどは麓の方の捜索を続けますかな」

と景時が洞窟と反対方向に向けて進もうとしますが、景親はやはり大木で塞がれている洞窟が気になって、その場から動こうとしません。

「三郎殿、参りましょうぞ」

景時が洞窟から目を離さない景親を促そうとしますが、

「いや、念のため、自分の目でも調べたい」

と言って景親は洞窟へ歩みを進めようとします。
しかし景時が景親の肩を抑えました。

「三郎殿。私が調べたと申したのをお信じになられませんか」

「そうではない。ただ自分の目で」

「それがお信じになっていないということでござる」

景時は掴んでいる景親の肩に一層の力を加えました。

「へ......平三殿。何をなされる」

「何をとは笑止な。この梶原平三、同族の誼でこれまで大庭殿に従い、平家に忠勤を励んでまいった。しかし、今、この平三の仕事を我が大将は疑うておられる。それがどれだけの侮辱になるか、お分かりですかな?」

「ぐ......わ......わかった。わかったから、離せ!」
景親はどうにも耐えきれなくなり、肩を左右に揺すって、なんとか景時の手から逃れました。

「ご無礼は平にご容赦。されど、私にも梶原家の当主という面子がございます。自分の仕事をわざわざ大将に確認されるとなれば、梶原平三はいい加減な仕事で大将の信用がない奴と思われる。これは私としては極めて心外なこと」

「あいわかった。他意はないのだ。すまぬ」
景親は自分の肩を労わりながら、景時への無礼を詫びました。

「ご理解、ありがたく存じまする。では、参りましょう」
そう言いながら、景時は、景親を洞窟の反対方向に促しました。

「それにしてもおまえの馬鹿力は凄まじいな、肩の骨が折れるかと思うたぞ......」

「ご無礼は平にご容赦......」

景親と景時の声がだんたん遠ざかっていくのを確認した洞窟の中の土肥実平は、大きな溜息をついてガックリと腰を落としました。

「助かった.......」

土屋宗遠、岡崎義実、安達盛長らも同じ感覚でした。
ただ、頼朝だけが決して姿勢を崩しませんでした。

「なんと言うたかのう。あの武士は」

頼朝が独り言のようにつぶやきました。

「は?」

実平が聞き返すと

「我らを助けた、あの武士の名前じゃ。名はなんと申したかの?」

頼朝が面倒くさそうに実平に尋ねると

「はぁ。確か、梶原平三(かじわらのへいざ)と」

「梶原......平三......この時のこと忘れまいぞ」

そう頼朝は自分に言い聞かせるようにつぶやきました。

軍勢壊滅の上、大将である頼朝の命すら危うかった石橋山の合戦は、頼朝の大敗でしたが、敵方武将の梶原景時の機転によって頼朝は九死に一生を得ました。この後、梶原景時は頼朝に帰参し、その行政・事務処理能力の高さを頼朝に買われ、鎌倉幕府創設に多大な貢献をすることになるのです。

(つづく)
posted by さんたま at 19:52| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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