2015年08月22日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(9)-右兵衛佐頼朝-

西暦1180年(治承四年)4月27日、諸国巡礼の山伏の格好をした男が、伊豆国蛭ヶ小島のとある屋敷を訪れました。

この屋敷は、21年前の西暦1159年(平治元年)12月に起きた、後白河院(当時)と二条天皇(当時)の戦い(歴平治の乱)の中で賊軍とされた源氏の大将・源義朝の遺児、右兵衛佐頼朝(うひょうのすけ よりとも)が流人として生活していた屋敷でした。

山伏は屋敷の門前において
「某は八条院様に仕え蔵人の仕事をしております源行家と申す者にござる。訳あって前の右兵衛佐殿(頼朝)にお取り次ぎ頂きたい」
と来訪の主旨を家人に伝えました。

家人はその主旨を頼朝の妻である政子(伊豆国の豪族、北条時政の娘)に伝えると、政子は粗相のないように奥へお通しするように家人に命じ、自らは頼朝のいる書院に向かいました。

「八条院の蔵人?」
書院で書き物をしていた頼朝が、側近・安達盛長から話を聞かされた第一声はそれでした。

この安達盛長は、通称、藤九郎といい、頼朝の乳母であった比企尼(ひきのあま)の長女・丹後内侍(たんごのないじ)を妻としている関係から、頼朝が伊豆へ配流になった際に、比企尼の命令で付き人として共に伊豆国に下った第一の側近です。妻・丹後内侍が宮中に務めていた為、京都政界における情報は、盛長のラインで頼朝に伝わっていました。

「御方様(政子)によれば源の姓を名乗っておられたとのこと。八条院のお名前を出された以上、追い返すわけにもいかず、奥へお通しになられております」
と、盛長がかしこまって申し上げつつ、

「佐殿(すけどの)のご一門ではございませんのか?」
と尋ねると、頼朝は「いやいや」と笑顔を作りながら
「その可能性がないわけではない。我が祖父・為義はもちろん、父義朝もあっちこっちに子を成しておられたからな」
頼朝は苦笑しながら答えました。

「ただ、朝敵となった源氏一門の者がだよ。御上(天皇家)に近い八条院様に仕えられるとは思えんのだ」
頼朝は会うべきか会わないべきか、しばし考え込んでいました。

「であれば、念のため、舅殿(政子の父、北条時政)にご一報差し上げておきましょうか。」
と盛長が言上すると

「藤九郎、それはどういう意味だ?」
と頼朝が盛長に尋ねました。

「我らに隠し事はないという意味です。後々、痛くもない腹を探られてはたまりませんからな。」
今度は盛長が苦笑しながら答えました。

北条氏は桓武平氏を祖先に持ち、伊豆国田方郡北条荘(現在の静岡県伊豆の国市)を拠点とする平家とは昵懇の豪族です。同じく伊豆国田方郡伊東荘(現在の静岡県伊東市)を領する伊東氏と共に、平家から頼朝の監視を命じられていました。

伊東氏当主・伊東祐親は、娘八重姫と頼朝との間に出来た子供を、平家の追究を恐れて殺しました。北条氏当主・北条時政も頼朝と政子との恋愛関係を断じて認めませんでしたが、最終的に根負けして、平家追究のリスクを背負った上で結婚を認めたという経緯があります。

「お主、まだ舅殿が我らの監視役だと思うているのか」
盛長の懸念を笑いながら吹き飛ばした頼朝ではありましたが、
「しかし、それが流人としてのこの地の生き方であったな......」
と盛長の気遣いに礼を言うと「お主に任せる」と言い残し、着替えをするため自室に向かいました。


「お待たせ致しました」
行家が通された奥の間に頼朝と盛長が姿を現したのは、行家が屋敷を訪れてから四半刻後でした。
行家は下座に座して平伏して頼朝を迎えていましたが

「恐れながら、八条院蔵人の職にある御方を下座にはおけませぬ。どうぞ上座にお移りあらんことを」

と頼朝が控えて、行家を上座に座るように促すと、行家はさらに一礼して上座に移りました。
行家が上座に座ったのを見届けると、下座に頼朝が座り

「前の右兵衛佐、源頼朝にございまする」
と平伏しました。

「八条院の蔵人、源行家にござる」
と行家も平伏し、
「某は源為義の子にして、佐殿の御父上義朝殿は腹違いの兄にあたります。従いまして某は、佐殿の叔父に当たり申す」
と言葉を続けると、頼朝も思うところがあったのか、

「もしや、鳥居禅尼様の弟御にあたる新宮十郎殿では......」
と恐る恐る尋ねると、

「おお!禅尼をご存知でおられたか。禅尼は某の姉になり申す」
と行家も満面の笑みで答えました。

「なるほど....... そうでございましたか。私の側に控えておりますこの安達藤九郎の縁者が都におりまして、父義朝の血族の情報を集めさせていたところ、鳥居禅尼様の存在を知った次第でした。」
と頼朝も納得がいった風で頷きながらも、目は決して笑ってはいませんでした。

「それで」
と話の流れを遮り

「わざわざ流人の某に、八条院の蔵人職の方が、こんな伊豆まで何用にございましょうか?」
と話の核心に切り出しました。行家もそれまでの笑みを一瞬にして消し、険しい顔になりました。

「お伺いしたのは、八条院の儀にあらず」
行家は懐より、一通の書状を取り出して表を頼朝に見せ、
「これは令旨にござる」
と宣言しました。

頼朝は床に手をつき、深く平伏一礼しました。
行家は令旨の表紙を外し、その内容を読み上げます。

それは、東海、東山、北陸三道、つまり東国の源氏およびその他の武門に連なる者に宛てたもので、最勝親王の勅命をもって、前の伊豆守である源仲綱(源頼政)がその内容を広く伝えるという形式を取っていました。

内容は、
@治承三年の清盛によるクーデター(治承三年の政変)が朝廷を無視した武力による軍事制圧であったこと。
Aその影響は寺社にもおよび、平家によってこの国の政治全般が奪われていること。
Bそして臣民がこれを嘆いていること。


これを挙げた上で、最勝親王は天武天皇の例(壬申の乱)にならい、皇室を私物化している平家を追討し、聖徳太子の例に学んで、仏法を破滅する奴らを討滅することを決心したというものでした。

よって、すべての源氏、藤原氏をはじめ、勇者と思う者すべては、力を集めて最勝王の平家追討に力を貸せというもので、もし追討に同意しない者は、平家の同類とみなし逆賊とすること。一方で勲功をあげた者は、最勝王が即位後、後日必ず望みどおりの賞を取らせると述べられていました。


行家は令旨を一通り読み上げると、再び表紙に包み直して、頼朝に差し出しました。
頼朝はさらに頭を垂れて深く一礼するも、令旨には一切手をつけようとしませんでした。

「佐殿?」

行家が訝しんで声をかけると、頼朝は頭を垂れたまま、肩を震わせ、目から大粒の涙をダラダラと流していたのです。さすがの行家もその姿にギョッとなってしまいました。

(つづく)
posted by さんたま at 15:21| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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