2015年07月13日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(4)-清盛、怒りのクーデター-

西暦1179年(治承三年)、平盛子が亡くなった翌月7月29日、今度は平清盛の嫡男であり、正二位内大臣を務めていた平重盛が病気で亡くなりました。ここでも後白河法皇は、重盛の領地だった越前国(現在の福井県)を院の近臣に与え、重盛の領地を平家一門から奪いました。

それでも清盛は法皇に対して何も行動を起こしませんでした。

「むー......つまらんな。どうして何もしてこないのだ」

後白河法皇はだんだん焦れてきました。回りくどい策を巡らすのに飽きてきたのかもしれません。
法皇はダメ押しとばかり新たな人事発令を同年10月7日に行いました。それは関白・松殿基房の三男である松殿師家を「正四位下 左近衛中将」から「正四位上」を飛び越して「従三位」に昇進させ、その二日後の10月9日には権中納言に任官し、左近衛中将を兼職させたのです。

要するに、都の天皇をお守りする近衛府の副隊長のお仕事と、政治を行う朝議の場に参列できる身分を得たわけで、名実共に上級貴族(公卿)の仲間入りをされたという感じですかね。

松殿基房は、兄・近衛基実が亡くなった際、基実の息子である基通が、官位も持たない七歳児であったため、「中継ぎ」として近衛家の家督を継承し、摂関(摂政・関白)の地位を得ました。よって、本来、近衛家の摂関の地位は、基通が継ぐべきもので、これを強力にバックアップしていたのが平家です。

師家に比べ、近衛家の跡取りである基通が「正三位 右近衛中将」であるので、位階こそ基通の方が上ですが、参議を経ずに権中納言に任官するのは、当時の摂関家の嫡子の慣例であり、明らかに基通への当てつけとしか見えない人事でした。

そして法皇は、この人事で松殿家の藤氏長者継承をなし崩し的に既成事実化しようと企みました。それは清盛が摂関家(近衛家)を取り込んで平家の権力強化を図っていたことと無関係ではありませんでした。

清盛は、先の関白・近衛基実に娘・盛子を輿入れさせ、近衛家の跡取りである基通の正室にも娘・完子を輿入れさせていました。このまま基通に近衛家の家督を継承されると、天皇家と摂関家の双方を平家が支配することになります。

この当時の朝廷は、院庁、天皇家、摂関家、この3つの権力の絶妙なバランスの上に成り立っておりました。院庁は後白河法皇、天皇家は高倉天皇、摂関家は松殿基房で構成されています。ただ、この当時、高倉天皇と建春門院滋子(清盛の義妹)との間に生まれた皇太子・言仁親王は平家に固められており、天皇家は実質的に平家に支配されていました。その上、摂関家を本来の嫡子である近衛基通が継ぐと、基通も平家の縁者ですので、天皇家と摂関家を平家が支配することになり、院庁はその権力を制限される可能性がでてきたのです。

「これ以上、平家の自由にさせてたまるか......」

近衛家の所領没収、ならびに重盛の越前国没収、松殿家の家格昇進、これらは法皇が清盛に対する牽制として行ったものに他成りませんでした。

一方の清盛は法皇の動向をずっと静観してきました。これらの施策を行う法皇の真意がどこにあるのかずっとそれを見極めようとしておりました。そして、今回の松殿家の家格昇進で、清盛はその怒りを爆発させることになります。

「おのれ!法皇様と言えどもこれ以上の勝手は見過ごせん!」

同年11月14日、清盛は福原(兵庫県神戸市兵庫区)から数千騎という大軍を率いて京に上洛しました。またたく間に都は平家の軍勢で溢れ帰り、六衛門府を含めて都の要所という要所はすべて平家の武力によって制圧されてしまいました。清盛による軍事クーデターが行われたのです。

世に言う「治承三年の政変」の始まりでした。

(つづく)
ラベル:京都 鎌倉 源平
posted by さんたま at 00:18| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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