2015年07月04日

鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(1)-平清盛と後白河法皇-

「いい国作ろう鎌倉幕府」とは、歴史の授業の年号の覚え方で鎌倉幕府の成立年(西暦1192年)の語呂合わせです。皆さんも耳に覚えがあると思います。これは鎌倉幕府を作った源頼朝さんが征夷大将軍という位に任ぜられた年です。

しかし最近の教科書では、これより 1192年よりも7年程遡って、朝廷(天皇)から日本の各地に守護(県警本部長のようなもの)地頭(県知事のようなもの)を置いても良いよと言われた西暦1185年をもって、鎌倉幕府の成立とされているようで、語呂合わせも「いい箱(はこ)つくろう鎌倉幕府」となってるようです。

日本で最初の朝廷とは切り離された公式の独立武家政権と言われた鎌倉幕府ですが、その成立過程においては、まさに昼ドラも真っ青のドロドロのドラマの積み重ねが繰り広げられておりました。

今回はそれを語っていきたいと思います。

1、平家の台頭
西暦1159年(平治元年)12月9日、当時日本のトップである「治天の君」と言われていた後白河上皇の近臣と、上皇の子で「時の帝(ミカド)」である二条天皇の近臣の間で戦争が起きました。世に言う「平治の乱」です。

近臣同士の戦いの結果、なんと両方とも共倒れとなりまして、最終的な勝者となったのは、二条天皇をうまく抱き込んで「官軍」と化した武家・平家の棟梁・平清盛でした。

この乱において「賊軍」とされ、平家と並ぶ武家で、源氏の棟梁であった源義朝は、東国へ逃亡中に家臣に殺害され、長男義平は捕縛されて斬首。二男朝長も戦いの傷の悪化で死亡。三男頼朝だけが、清盛の継母・池禅尼の命乞いにより伊豆に流罪で生き残りました。

翌年、清盛は「正四位下 太宰大弐(太宰府の次官)」から「正四位上」と「従三位」を飛び越えて一気に「正三位 参議兼右兵衛督(次官兼内裏の警備長官)」に補任されました。武士として初めて参議に列したのは、この平清盛です。ここから清盛の官位はトントン拍子に上がり、7年後の西暦 1167年(仁安二年)には太政大臣(現在の総理大臣)にまで昇りました。

この頃までに、清盛の子弟や一族は、ほぼ朝廷の殿上人(エラい人)になっており、この後の平家の権勢は、最終的に天皇家すらも左右する力を持つに至ります。


2、鹿ヶ谷の陰謀
西暦1176年(安元二年)7月、後白河法皇のご寵愛の建春門院滋子(清盛の正室・時子の妹)が病死しました。滋子は平家と後白河院との間の仲立ちと調整役であったため、彼女の死後、清盛と後白河法皇の間にさざ波が生じます。

後白河法皇は自分の息子でありながら、父に従順ではない二条天皇の系統を嫌い、二条天皇の子である六条天皇をわずか五歳で廃位させました。代わりに滋子との間にできた憲仁親王を即位させて「高倉天皇」としたのです。

一方、清盛も滋子を後白河法皇に嫁がせた目的は、その皇子を天皇の位に付けることで「外戚」(天皇の親族)となることを目論み、それによる一層の平家の権力強化を狙っていました。

従って、この時まで後白河法皇と清盛は「高倉天皇の擁立と安定した政権運営」という共通の目的がありました。しかし成人した高倉天皇は「これから先は僕一人でやるから、お父さんは隠居して」とニッコリしながら言われ、後白河院の院政停止を望んでいました。高倉天皇の後ろには平家がいる以上、それは、後白河法皇にとって「政権を名実ともに外戚である平家に奪われる」というピンチに他成りませんでした。

後白河法皇とその息子である高倉天皇の間には微妙な空気が流れており、その調整にあたっていた母親である滋子の死は、後白河法皇と平家との関係が切れたという事実だけではなく、後白河法皇が平家の権力の押さえ込みを考え始めた時期でもありました。

翌西暦1177年(安元三年)6月、後白河法皇は、昔の自分の腹心で、先の平治の乱で死んだ信西の子・静賢法印が主を務める東山の鹿ヶ谷山荘に行幸しました。山荘には藤原成親、西光、俊寛ら院の近臣が集まっており、当時の朝廷を悩ませていた比叡山延暦寺の僧兵対策の打ち合せが行われました。しかし、これが平家を打倒するための打ち合せと見なされました。世に言う「鹿ヶ谷の陰謀」です。

この内容は、この場に呼び出されたと言われている多田行綱という北面の武士(院の警備隊長)から清盛に密告されました、それを知り烈火のごとく怒った清盛は、関わった者全員の官職をクビにして、斬首または島流しに処しました。ただ後白河法皇に対してはなんら問題にすることはありませんでした。

院の近臣が平家打倒を企てたと言われるこの事件ですが、清盛と後白河法皇の間に冷ややかな空気が漂っていたとはいえ、後白河院に平家を滅ぼす密議を凝らす必然性も緊急性もありません。よって最近では、これは平家のでっち上げではなかったという説があります。

いずれにしても後白河法皇は、この事件の影響で自分の側近である「院の近臣」の殆どを失いました。
これは後白河法皇の政治的影響力の著しい低下に他なりませんでした。

(つづく)
ラベル:京都 源平 鎌倉
posted by さんたま at 21:48| Comment(0) | 鎌倉時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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