2015年04月05日

島津に『待った』をかけた男「大友宗麟」(19)-大友勢、高城城下に着陣-

1.大友勢、新納院高城城下に迫る。
西暦1578年(天正六年)十月二十日未明、大友勢の先陣30,000兵強が新納院高城(宮崎県児湯郡木城町)の城下に迫りました。陣立ては以下のとおり。

本陣:総大将・田原親賢(豊前妙見嶽城主、宗麟の義兄)
左翼:佐伯惟教(豊後国栂牟礼城主、宗麟重臣)
右翼:田北鎮周(宗麟重臣)

ご覧のとおり、宗麟自身は出陣しておりません。
この頃の彼は務志賀(延岡市無鹿町)に留まり、キリスト教王国の構想に余念がなかったのかもしれません。しかし、戦に関するの命令はすべて宗麟自身が発令していました。すでに高城近辺では島津勢と緊迫した状況ができていたにもかかわらず、それを肌で感じることができない宗麟の命令にどれだけの現実味があったのかは不明です。


2.新納院高城の島津勢、佐土原に援軍を求める。
新納院高城は、日向国内に三つ存在したと言われる三高城のひとつです。日向国内にはこの新納院高城の他に三俣院高城(都城市高城町、主に北郷氏の城)穆佐院高城(宮崎市高岡町、伊東氏の城だったが今は島津氏の城)がありました。

新納院高城は、北には谷瀬戸川(現・切原川)南には高城川(現・小丸川)に挟まれ、標高60〜70mほどの半島型台地の上に築かれており、北側、東側、南側は絶壁。唯一平地に繋がっている西側には5〜7の塹壕(空掘)を設けるという当時としては途方もない防御能力を有しておりました。

この城を守るのは島津家当主・島津義久の側近・山田有信。当時四十二歳。この年の二月に城主になったばかりで、まだ八ヶ月足らずでした。

有信は、大友勢が夜間に炊く篝火の数が増えていくのを見るにつれ、城内の兵力わずか300兵では守り難いと察知し、今のうちに鹿児島に急使を走らせ、同時に現在の島津家の前線基地である佐土原城(宮崎市佐土原町)にも急使を送りました。

これを受けた佐土原城主の島津家久(義久末弟)は即座に1000余りの手勢を率いて佐土原を発し、高城内に援軍として入りこめました。また近隣の都於郡城(宮崎県西都市、旧伊東氏の本城)からは鎌田政近、比志島国貞らの手勢が加わり、城内には瞬く間に2000強の兵が集まりました。

城下に陣を展開していた大友勢ですが、家久らの援軍の入城をやすやすと許しているところが腑に落ちません。それだけ大友勢が島津勢を甘く見ていたのか、油断していたのかどちらかだとは思います。大友勢から見れば、30,000兵で押し寄せれば、島津がいくら兵を入れようとものの数ではないという驕りもあったのかもしれません。

西暦1578年(天正六年)十月二十日早朝、ついに高城を巡っての大友と島津の戦いが切って落とされました。

(つづく)
posted by さんたま at 13:55| Comment(0) | 戦国(安土桃山時代) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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