2014年12月20日

島津に『待った』をかけた男「大友宗麟」(16)-宗麟の決断-

▼日向国の情勢変化
西暦1578年(天正六年)正月、日向国県地方一帯(宮崎県延岡市)を支配する国人領主・土持親成は、これまで臣従してきた大友氏を裏切り、島津氏に臣従しました。

土持氏は、元々宇佐八幡宮(大分県宇佐市)にゆかりのある一族で、平安時代あたりから宇佐八幡宮の荘園の管理や、郡司クラスなどの地域の要職を務め、日向国に多くの分家を輩出し、その支配力を強めていきました。

室町時代になって伊東氏が下向してくると、当初は共に武家方(幕府方)として南朝方の勢力の駆逐という目的で共闘しました。しかし、南北朝が統一されると関係が悪化し、伊東氏が財部土持氏(宮崎県児湯郡高鍋町一帯を支配)を滅ぼした際に決定的な断絶に発展。以降は県土持氏は大友氏のバックアップを得るため、大友氏に臣従していました。

今回の県土持氏の裏切りは、伊東氏の勢力が日向国より駆逐され、島津氏の日向支配が実効を帯びることにおいて、土持氏として、島津氏を敵にすることは得策ではないという判断と思われます。またその判断には宗麟が日向国への関心が薄いことと、宗麟のキリスト教への帰依自体が、宇佐八幡宮を出自とする土持氏には受入れ難かったかもしれません。


▼日向国出兵へ
土持氏の島津氏臣従により、宗麟は自分の本領である豊後国(大分県南部)と島津氏勢力の最北である日向国(宮崎県)との国境を前に勢力を接する関係になりました。もはや、宗麟に日向国への興味があるなしではなく、大友氏として島津氏の北上を迎撃しなければ、本領である豊後を奪われかねないと状況に発展していました。

また、伊東義祐の出兵依頼だけでなく、いまだ孤軍奮闘している伊東方の勢力が日向国門川、塩見、山陰(宮崎県日向市、児湯郡一帯)には存在しており、彼らからも援軍依頼が大友義統の元に届いていました。義統も大友を守る為にも島津氏と一戦する必要があることを考え始めていました。

ただ、長年宗麟に仕え、いまや筑後国の名族立花氏の家督を継承した大友家重臣・戸次道雪(戸次鑑連/立花道雪)や、大友家軍師である角隈石宗はこの日向国の出兵には反対していました。

道雪は、島津氏と当たるには、十分の兵力を以て当たらねば勝てぬことは察しており、それは中国の毛利氏、肥前の龍造寺に対し隙を与えることにつながることから、いずれは雌雄を決する時が来るが、今はその時期ではないと宗麟を諌めます。

石宗は、軍師という観点から
「宗麟の年齢が四十九歳の厄年であること」
「奇門遁甲(方位学の一種)からみて、未申(南西)の進軍に吉がないこと」
「昨今、夜空に浮かぶ帚星(彗星)の動きに凶事の予兆がみられること」

を挙げて、宗麟を諌めました。

しかし、宗麟は道雪の言う事も、石宗の言う事も、聞こうとはしませんでした。


▼宗麟の心境変化
一度は関心を失った日向国について、なぜ宗麟はそこまで考えるようになったのか、それは単に県土持氏の裏切り原因ではありませんでした。

宗麟はこれまでの「己の歩んで来た覇道」を省みて、特に今山の戦いで実弟大友親貞を失った反省から、戦いの虚しさを悟り、救いを求めるかのようにキリスト教への帰依を強めていました。また、帰依の仕方は尋常ではなく、信仰の為にキリスト教に帰依しなかった正室を離縁したり、家臣に断食や礼拝を強いるという、ある種「狂喜」に近いものがありました。

この宗麟の異常とも言えるキリスト教崇拝は、大友家臣団の中に様々な軋轢を生じさせていました。

キリスト教を盲信的に信仰するようになった宗麟は、まだ見ぬ日向国に出兵する目的として、島津氏の勢力を排除し、伊東氏の支配を復権させるという以外に、日向国を自らが作る「キリスト教王国の礎」にしようと考えていました。この世のキリスト教の楽園を自らの手で日向国に作るという野望を抱いたのです。

戦いの虚しさを悟り、家督も嫡男義統に譲った隠居爺が、キリスト教のための楽園を作るという目的をもった途端、俄然と野望に燃え上がりました。それ故、日向国出兵に拘り始めたのです。ぶっちゃけ伊東氏の復権とかは二の次です。元々強力な実行力を持つ宗麟のこと、こうなるとたちまち軍事活動を開始し始めます。

大友家家臣団と宗麟との間に生じつつある溝を抱えたまま、着々と日向国出兵が進んでいきました。

(つづく)
posted by さんたま at 20:19| Comment(0) | 戦国(安土桃山時代) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。