2014年12月15日

島津に『待った』をかけた男「大友宗麟」(15)-揺れる日向国-

▼隠居
西暦1570年(元亀元年)、肥前国今山(佐賀県佐賀市今山)で、肥前の戦国大名・龍造寺隆信と対峙した大友宗麟は、弟の大友親貞を討たれるという大敗を喫し、その結果、龍造寺隆信と不利な条件での和睦を余儀なくされました。

龍造寺は形式上は大友に降伏する形をとりましたが、これにより肥前方面への平定は龍造寺に一任されることになり、自らの勢力を西九州に広げることが不可能になりました。
宗麟は、その後も龍造寺の勢力を押さえ込もうと牽制行為をなんどか行いましたが、隆信はこれをのらりくらりとかわしてやり過ごしたため、殆ど効果はあがりませんでした。

この頃から、宗麟に心の変化が芽生え始めます。彼は自分が歩いて来た「覇道の道」に疑問を持ち始めるのです。

これまで戦い続けた疲労と、実弟を失った心の空虚が、彼の中の「戦国大名としての意識」に変化を生じさせ始めました。これがやがてキリスト教への信仰に繋がっていきました。

宗麟のキリスト教への信仰は、単なる礼拝に留まらず、断食や寺社の否定にまでエスカレートしていき、これまでなんとか保って来た大友家臣団の結束に少なからずの動揺を与えていったのです。

そして西暦1576年(天正四年)、ついに宗麟は大友家の家督を嫡男である義統に譲り、自らは丹生島城(臼杵城:大分県臼杵市)へ隠居します。但し、当主としての実権は宗麟が持っていました。
この時、織田信長に通じることで、織田氏の中国侵攻の際は毛利を西から迎撃することを誓ったと言われます。これは宗麟が織田信長を為政者と認めた契機であり、足利幕府から織田信長へ鞍替えしたタイミングでもありました。


▼伊東氏の没落と揺れる日向国
これまで北部九州を舞台に合戦を続けて来た宗麟でしたが、思わぬことから、南九州の勢力争いに巻き込まれて行きます。

西暦1577年(天正五年)、南の隣国である日向国(宮崎県)をほぼ一円支配していた戦国大名・日向伊東氏当主、伊東義祐一行が島津氏の日向侵攻に敗れて、豊後国に亡命してきたのです。

伊東氏の先祖は、鎌倉時代に伊豆国伊東庄(静岡県伊東市)を本領とする御家人で、室町時代初頭に、足利尊氏より尊氏の正室赤橋氏の所領である国富荘(宮崎、佐土原、清武、西都,新富の宮崎平野一帯)を守る為、都於郡(西都市大字鹿野田字高屋)に三百町の領地を賜り、日向国に下向した由緒正しき一族です。

伊東氏は南北朝の争乱を利用して領土を広げ、南の薩摩国の島津氏、大隅国の肝付氏を圧迫し、肥後人吉の相良氏などと協調しながら、日向国内に伊東四十八城という巨大な外城ネットワークを作り上げたのが、伊東氏十代目当主の伊東義祐でした。

しかし義祐は徐々に京風文化に溺れて武威がなくなっていき、西暦1572年(元亀三年)に真幸院木崎原(宮崎県えびの市)で起きた、島津氏当主島津義久の実弟で日向国飯野城主であった島津義弘との戦いに大敗し、伊東氏の主力武将がほぼ全滅する事態に陥ります。

この結果、伊東家家臣団に不協和音が生じ、そこを島津氏の調略につけこまれ、内山城主(宮崎市高岡町)野村文綱、三ツ山城主(宮崎県小林市)米良矩重、野尻城主(宮崎県小林市野尻町)福永祐友日向国の南西方面の城を守っていた家臣達が次々と伊東氏を離反していきました。

日向国南西部が島津氏の支配下に入り、なおかつ、日向国南部支配の拠点である飫肥城(宮崎県日南市)も島津忠長の攻撃を受けて持ちこたえられず、城主である義祐三男祐兵一行が佐土原城に転がり込んできました。

さらにこれまで同盟関係にあった日向国北部の国人領主である県土持氏(宮崎県延岡市一帯を支配)当主・土持親成が、突如伊東氏の門川城(宮崎県門川町)を攻め始めたため、伊東氏は北と南の前後に敵を持つことになってしまいました。

事態を憂慮した義祐は本城である佐土原(宮崎市佐土原町)を維持できず、若くして亡くなった義祐嫡男義益の正室・阿喜多が宗麟の姪であったことから、佐土原を捨てて一族郎党を引き連れ、宗麟を頼って北上し、米良山中から高千穂に抜けて豊後入りしてきたのでした。

宗麟は、姪である阿喜多、そして義祐三男祐兵の妻の阿虎を丹生島城に入れて生活を面倒を見、義祐と嫡孫の義賢、祐勝、そして三男祐兵とその家臣である川崎祐長などには城下に屋敷を与えて住まわせました。義祐一行の面倒は、宗麟の腹心で義兄でもある田原親賢があたったと言われています。

義祐が豊後に亡命してきた理由はただ一つ。大友氏の助力を得て、今一度日向に攻め込んで島津氏の勢力を日向国から排除することにありました。しかしこれには宗麟は気乗りしませんでした。日向国は山間部が多く、平野部が少ないことから、国力がそれほど豊かではないと思っていたからです。

しかし、その宗麟の考えは思わぬところで変わってしまいます。
それは、長年同盟関係にあった県土持氏当主・土持親成が島津氏に臣従したという報が入ったのです。

(つづく)
posted by さんたま at 10:00| Comment(0) | 戦国(安土桃山時代) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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