2014年09月08日

島津に『待った』をかけた男「大友宗麟」(14)-西九州平定の夢消える-

▼許せない敵
西暦1569年(永禄十二年)11月、毛利本隊が撤退し、立花山城が開城したことで、宗麟は筑前国の支配を確たるものにしました。しかし、宗麟には毛利氏と共にどうしても許せない敵がもう一人いました。それは、毛利氏に加担し、毛利氏の手先となって立花山城を攻め取った肥前の戦国大名、龍造寺隆信でした。

元々、宗麟は東肥前(今の佐賀県あたりか)を支配下に治め、南肥前を伺う龍造寺氏に対して警戒しており、一度合戦に及ぶところを毛利氏が筑前に攻めてきたため、止む無く引き返したという背景があり、龍造寺隆信はその隙に毛利と呼応して立花山城を攻めとったのでした。

宗麟にとって、毛利氏を筑前から追い出し、その支配を完全なものにするには、隣接する東肥前の龍造寺氏を牽制しておく必要があったのです。


▼龍造寺への軍事活動
西暦1570年(元亀元年)3月、宗麟は60,000兵の大軍を率いて龍造寺領に攻め込みました。
対する龍造寺側の兵力はわずか5,000兵。野戦ではとても勝ち目がないため佐嘉城(のちの佐賀城)に篭城しつつ、牽制のためにいくつか小部隊を展開させていました。

宗麟は高良山(福岡県久留米市)に本陣を張り、幾度か戦を仕掛けてみたものの、龍造寺軍の士気は思いの外に高く、簡単には敵を寄せ付けなかったため、戦況は膠着状態に入り、約半年が推移しました。

その間、兵力で劣る龍造寺側には後詰の援軍の見込みが無いため、このまま月日ばかりが経過すれば食糧が尽き、佐嘉城落城は必至の状況でした。


▼今山の合戦
一方、高良山の宗麟は8月になっても勝報が届かないことにイライラし始め、自分の弟である大友親貞に新たに3,000兵を与えて前線に送り出し「いつまで掛かってるんじゃ、さっさと攻め落とせ」と総攻撃命令を下しました。

同月17日、親貞は佐嘉城の北に位置する今山(佐賀県佐賀市)に布陣しました。佐嘉城北に布陣していた大友の兵は総勢約3万にも及んだと聞きます。しかし、親貞は占いの凶兆を気にし、直ちに総攻撃には踏み切らず、吉日とされた8月20日をもって佐嘉城に総攻撃を開始することを決定しました。
総攻撃の前日の夜、親貞は今山の本陣で勝利の前祝いとして将兵たちに酒宴を許しました。

しかし、大友軍の動きは、龍造寺家臣、鍋島信生(後の鍋島直茂)の間者によって監視されていました。
間者から大友軍の酒宴のこと知った信生は、主君である龍造寺隆信に夜襲を進言しました。しかし、当時の佐嘉城内では大友軍の包囲網を突破することを諦め、開城して降伏するかという雰囲気で、夜襲などとんでもないと一蹴されかけました。

しかし、その時、隆信の生母・慶ァ尼が長刀を持って軍議の場に現れ
「そなたたちは男子でありながら、敵の大軍を目の前にしてビクついて、まるで鼠のようじゃな。男子たるもの死生二つの道をかけて戦ってこそ本望。活路が見えたのなら速やかに大友の軍勢と戦いなされ!
と、檄を飛ばしました。

慶ァ尼は隆信の生母でありながら、夫である龍造寺周家が亡くなった後は信生の父、鍋島清房に嫁いでいた為、信生にとって慶ァ尼は「継母」にあたります。その人から言われたのでは、さすがに抗えません。
隆信は、夜襲を提案した信生を総大将に500余の奇襲部隊を急遽編成しました。

8月19日夜から20日の未明、信生の奇襲部隊は城を抜け出し、包囲の間を縫って今山の敵本陣の背後に兵を伏せました。

直生は、まず敵陣に鉄砲を撃ちかけ「寝返り者がでたぞ!」と虚報を流しました。
酒宴で士気が緩み切った大友軍は、突然の銃撃と虚報に慌てふためいて大混乱に陥り、ついに同士討ちを始める状況となってしまいました。

その様子を見ていた信生は「頃合いは良し」と自ら手勢を率い、統制が取れておらず手薄になった親貞の本陣に斬り込み、見事、総大将大友親貞を討ち取ってしまったのです。
総大将を失った大友軍は指揮命令系統を欠いて散り散りになり、この時2000以上の兵を失ったと言われます。


▼龍造寺の降伏
60,000兵の大友本隊にとって、2,000兵を失ったことはわずか3.5%ほどの損耗で、大勢に影響はありませんでしたが、総大将である大友親貞を失った兵の士気低下、そしてなによりも宗麟のショックは凄まじいものでした。一方で、大友軍は半年以上も城を包囲するも、いまだに佐嘉城攻略の糸口を掴めず、兵の水や食糧補給も限界にきていました。

限界は佐嘉城側も全く同じでした。攻め手の大将である大友親貞を打ち取った鍋島信生の名声は高まり、城内の士気は高まったものの、60,000の兵を相手に再度戦いを挑む猛者はいませんでした。

双方、相手の出方を伺い、戦線はまたも膠着状態に入りましたが、それを破ったのはまたも信生の策でした。
「降伏しましょう」
佐嘉城の諸将たちは「オマエはナニをイッてるんだ?」という怪訝な顔を浮かべました。
そもそも降伏論が城内の主論になっていたのを、夜襲でブチ壊しにしたのは、(慶ァ尼の言葉があったとはいえ)他でもない信生でした。しかし信生は諸将に言いました。

「攻め手の大将を討ち取り、大友勢六万と言えども士気の低下は止められぬはず。しかもあれからひと月も経つのに弔い合戦を挑んでくる様子もない。そして我らとて後詰めもなくこのまま篭城しても先はない。どうせ末路が見えているなら、先の戦の勝利の分がある状態で和睦を切り出すことが肝要ではないか」

信生の言葉には理がありました。それは隆信の心にも響きました。
同年9月末、龍造寺側から大友側に和睦が提起されました。

宗麟は、龍造寺の領地を奪うことなく、隆信の弟・龍造寺信周を人質に差し出すことを条件とし、これを隆信が受け入れた為、両者間に和睦が成立しました。

大友にとっては、今山の戦いで2,000兵の損耗し、さらに弟親貞を失い、なおかつ龍造寺の勢力の現状維持を黙認したため押さえ込むこともできず、人質だけとって和睦するのは、極めて利の薄い不利な和睦でした。しかし、宗麟の心は弟を失った喪失感で、もはや領土的問題よりも、いかにして戦いを終わらせるかにしかなかったように思います。和睦の際に領地の話にならなかったことからもそれが伺い知れます。


▼大友氏の夢断たれる
この和睦によって、肥前龍造寺氏は大友氏へ従属することになりました。ですが、それは建前のみで、実体は肥前の戦国大名として軍事活動を活発化させ、周辺の国人領主を次々と滅ぼし、あるいは降伏させていきました。

龍造寺もしたたかで、大友からの軍勢動員の命令などには従って兵を出したりしていたので、大友氏は龍造寺の軍事活動と領土拡張を黙認せざる終えませんでした。

こうして宗麟は、西肥前への勢力拡大が自力でできなくなり、西九州平定の夢は断たれてしまったのです。
posted by さんたま at 00:07| Comment(0) | 戦国(安土桃山時代) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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