2014年06月01日

岩牢に八年以上も幽閉された男・大河内源三郎

本日(2014/6/1)放送の大河ドラマ「軍師官兵衛」「有岡、最後の日」で、半年間有岡城の土牢に幽閉された黒田官兵衛が救出される回でした。

城の石牢に半年間幽閉された影響で、以後の官兵衛の足は不自由になってしまいます。
その辛酸は凄まじいものであったことは否定できません。

しかしながら、戦国時代の同時期において、官兵衛と同じように城の土牢に幽閉され、また官兵衛以上の8年の長きに渡って幽閉され、救出された武将がおりました。

その名を大河内源三郎諱は政局(まさちか)
三河・遠江国主、徳川家康の家臣だった男です。

今日はその男のことを書いてみたいと思います。

1.徳川と武田の密約

西暦1568年(永禄十一年)、甲斐・信濃国主である武田信玄と、三河国主である徳川家康は、今川氏真の支配下にある遠江・駿河国(現在の静岡県)を共同で攻める密約を交わします。
信玄が甲州口から駿河国を攻め取り、家康が三河口から遠江国を攻め取るという分割支配です。

この結果、家康は三河・遠江の二国の国主となり、拠点を三河の岡崎城から遠江の浜松城に移します。
その際、遠江と駿河の境に位置する高天神城(静岡県掛川市下土方)の城主・小笠原氏興は今川を捨て、徳川に味方しました。


2.武田勝頼、高天神城を攻める。

西暦1574年(天正二年)五月、信玄の跡を継いだ武田勝頼は、二万五千兵を率いて高天神城に攻め寄せました。
この高天神城は遠江最大の要害「高天神城を制する者が遠州を制す」とまで言われていました。
あの武田信玄も生前どうやっても攻め落とせなかった城がこの高天神城です。
高天神城の城主は小笠原氏興の子・小笠原与八郎が務めていました。

信興は、すぐさま浜松城の家康に援軍を求めました。
しかし家康の手勢は岡崎、浜松の両城を合わせても九千足らずで、とても武田と戦えるものではなかったため、高天神城に軍監を使わし、盟友である織田信長に援軍を求めました。この時遣わされた軍監が大河内源三郎でした。

源三郎は軍監として「援軍は必ず来る」と言い回って城内の兵の士気の鼓舞に当たりました。
しかし、援軍が来ない状況での篭城戦は与八郎に心の隙を与え、そこに武田の調略の手が伸びました。
与八郎は城に籠るだけでなく、時々討って出て武田軍を撃退しましたが、その引き上げ時に武田の手の者が雑兵に混じって城内に入り込んでいたのです。

この事実を知った源三郎は、家康に「小笠原与八郎、城内の主戦論者を宥め回っており、厭戦感ひとかたならぬ状況、このままでは些か案じられ候。されど御屋形様の命あるまで城は我が身に代えても守り抜く」という内容の書状を送っています。

同年六月十七日、織田信長の援軍が吉田城(愛知県豊橋市今橋町)に到着。
家康もこれに同行し、翌日高天神城に向けて進軍する予定でした。

しかし翌十八日、高天神城は武田の手に落ちてしまいました。
与八郎が武田に降伏し、城を開け渡してしまったのです。
源三郎は、体を張って最後まで武田への降伏と開城に反対しました。
しかし与八郎の意思は変わらず、とうとう源三郎を高天神城の地下の岩牢に幽閉してしまったのです。

勝頼は高天神城を落とした後、浜松まで抜くつもりでしたが、織田信長の援軍到着でそれもならず、やむ得ず、家臣横田伊松を城代として置いた後、甲府に引き上げざるを得ませんでした。
この時から源三郎は高天神城の岩牢で苦渋の毎日を送ることになるのですが、横田は源三郎の武士の意地に感嘆し、尊敬の念すら持っていたので、丁重に扱いました。


3.徳川家康、高天神城を攻める。

高天神城の戦いの翌年、長篠設楽原の戦いで、武田は織田・徳川連合軍に大敗しました。
徳川は二俣城(静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)諏訪原城(静岡県島田市金谷)を攻略して、武田の勢いを削ぎ、大井川流域を支配下においたため、遠江と駿河の境の固めを盤石なものにしました。

しかし、高天神城がいまだ武田の手にある状況では、完璧とは言えませんでした。

西暦1580年(天正八年)秋、徳川家康は五千の兵でついに高天神城を攻めました。しかし力攻めではなく、城の周囲を囲み、支城の連絡を絶つ「兵糧攻め」を仕掛けたのです。

この時の高天神城主は、今川の旧臣・岡部丹後守(元信)。

岡部は勝頼に援軍を求めますが、当時の武田は長篠の戦いからの痛手から回復しておらず、さらに上杉家の御家騒動である「御舘の乱」による失策で、それまで盟友だった北条氏までも敵に回していた為、全く身動きが取れませんでした。

年が明け、西暦1581年(天正九年)三月になると、城内の備蓄食糧も底をつき、勝頼からの援軍が来ない高天神城は、開城するか城を枕に決戦するか二つに一つの選択を迫られました。
そこで、岡部は、城の石牢に幽閉されたままになっている大河内源三郎に目を付けます。

岡部は「城を枕に決戦となれば双方共に死者も出る、それよりは城を開くので城兵の命は助けて欲しい」という内容の開城の使者を源三郎に頼みます。しかし源三郎は

「八年の牢暮らしで、足はすっかり萎えており役に立ち申さぬ」

と断ります。

岡部はこの不遜な態度に「従わねば斬る」と抜刀しますが

「斬りたければ斬れ」

と源三郎は取り付くしまもありません。
岡部も開城の使者の役割は、徳川家家臣だった源三郎しか務まらぬと思っていることから、この場で殺す事に利はありませんでした。

それからというもの、岡部は源三郎に苦渋の拷問をしかけます。
その内容というのが

着物をはぎ、直肌に蝋を垂らす。
ツメを炙る。
髪を槍に結び兵二人で担いで回す。
毒入り御前を食わせる。


というもので、まぁ、全体的にキッツイ感じです。
これらの拷問に源三郎は一切屈せず、ただひたすら家康が高天神城を攻め落とすことだけを願って耐えていました。


4.大河内源三郎、救出さる。

同年三月二十二日 源三郎を使者に開城することを諦めた岡部は、城内に残った城兵を率いて、徳川軍に討って出ました。討ち入った先は徳川家重臣・大久保七郎右衛門(忠世)の陣。
岡部の相手をしたのは忠世の実弟の大久保彦左衛門と大久保家の家臣・本多主水で、最終的に岡部は本多主水に討ち取られてしまいました。

三日後の三月二十五日、大将のいない高天神城の城兵はすべて討って出て、これを徳川方はほぼすべて討ち取りました。その首は六百以上に及んだといいます。

徳川方は高天神城を接収し、城内巡検の際、巡検使が岩牢の中に一人の穢れた囚われ人を発見しました。
巡検使が

「こなたは誰じゃ」

と尋ねると、囚人は

「大河内源三郎にござる」

と答え、尋ねた巡検使は驚愕して、即座に家康の耳に入れたと言います。

「源三郎が生きていたじゃと?」

今度は家康が驚く番でした。
巡検使に案内をさせると、ちょうど板敷に乗せられた源三郎が岩牢から兵たちに運び出されてきたところでした。
兵たちは家康の姿を認めると、板敷をその場に下し、そして家康がその板敷に近づきました。
板敷の上には、真っ黒にススけた一人の老武者が横たわっていました。

源三郎はゆっくり目を開け

「御屋形様か...」

とつぶやきました。
8年振りの外界の眩さに、源三郎の目は殆ど使い物にならなくなっていました。

「源三郎。儂じゃ。家康じゃ」

家康はそう言うのが精一杯で言葉が続きませんでした。

「その声はまさしく殿......殿、とうとう、この城、落とされましたな。」

源三郎はたどたどしく笑みを浮かべながら言いました。

「源三郎、ただ、殿が来ることだけを信じ、どのような甘言にも乗らず、某(それがし)は某の戦をやっておりました。某もまた勝ちましてござる......」

大河内源三郎は、この戦いの恩賞として、家康より遠江国稗原(静岡県磐田市稗原)の地を宛てがわれ、故郷の津島(愛知県津島市)で静養後、「無為に牢の中にいたのは武士道の穢れだ」と悟り、出家。法名を皆空と名乗りました。しかし後年、家康に呼び出され、小牧・長久手の戦いで討死したと伝えられます。

官兵衛と同様に城の岩牢に幽閉された男、大河内源三郎のエピソードでした。
posted by さんたま at 23:36| Comment(2) | 戦国(安土桃山時代) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
山岡壮八の本では某は某の戦を・・・のくだりがないのは略してる?
儂じゃの儂はセーフだけど、某はの某は(それがし)と注釈したほうが良いと思います。
Posted by at 2016年11月21日 06:50
おっと。。。ご指摘ありがとうございます。
ご忠告ありがとうございます。
注釈入れさせていただきます。

>さん
>
>山岡壮八の本では某は某の戦を・・・のくだりがないのは略してる?
>儂じゃの儂はセーフだけど、某はの某は(それがし)と注釈したほうが良いと思います。
Posted by さんたま at 2016年12月18日 21:32
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: